第205話 約束までの距離(1)
兄さんが僕の父上で、アレクシスが僕の母上。なんでそのことを僕が知っているかということについては、これは、もう説明するのも面倒臭いのと、ルイーズが真実を僕にしゃべったとなると、兄さんの怒りがルイーズに向くのは予想がついていたし、僕がルイーズにしようとしたことを知られるのも嫌なので、アークランド公から打ち明けられたことにした。彼は察しのいい聡明な人物だと言って。
どう考えても囚われたアレクシスがその前に子供を生んでいて、その生んだ子供が僕だなんて話を、公が分かるわけがないのだったが、兄さんはその晩随分取り乱していて、僕がもっともらしく内務卿配下の諜報機関名を出したりして、理屈っぽくその作り話をすると、何となくそれを信用した。勝手に勘違いした兄さんが悪いので、僕はその上に話を乗っけて、そのまま押し通した。
「貴方は酷い人だ。貴方はアレクシスを迎えに行くべきだ。なんで行かないんですか?
貴方には彼女を迎えに行かなければならない義務があるはずだ。僕を生ませた女じゃないですか。若年での出産は通常だって死亡リスクが跳ね上がるっていうのに、更にアディンセル家の呪いなんて酷いことに係わりを持たされて。
だいたい十一歳で子供を作るとか、話を聞いたときにはどう解釈していいか分からなかったよ。普通は女の下着を見るのもドキドキする年頃だ。僕もカイトもずっとそうだったんだぞ。僕らは何年もそんなことばっかり言ってたんだ。はっきり言って今でも言ってる!
それなのに、その若さで女に手を出すとか、兄さん貴方、エロすぎなんだ!」
「エロくて何が悪い。生んでやったんだから感謝して貰おう」
兄さんは居直った。
「貴方が生んだんじゃないでしょうが! なんでそこで威張るんだ。
なんでそんなに態度がでかいんです、ここまで話して全然反省もなければ、アレクシスを心配すらしない貴方の態度は僕には理解できないことだ。
本当にね、アレクシスは死ぬ思いをして生んでくれたんですよ。貴方出産の痛みって分かってるんですか?」
「それはおまえも分からんだろう」
「そうだけど、でも、西瓜を鼻の穴から出すより酷いって話。僕ほんと女じゃなくてよかったって思ったんだ」
「よくしゃべる子供だな」
「それくらい大変な思いをして、僕を生んでくれたってことだよ!
しかもトバイアに生贄に差し出したわけでしょう。そこまでやっておきながら、彼女のつらい思いに報いもせずに放置とか、兄さん貴方は人でなしにもほどがある!」
兄さんと僕は、夕食を中断し、テーブルのわきに立って延々話し合いを続けていた。話し合いと言うか、もはや再会するために何ひとつ障害のないアレクシスを、今もって迎えに行かないなんて訳の分からないことを言う兄さんの強情を、僕が徹底的に改心させてやる必要があったのだ。
しかし兄さんは先刻置いた赤ワインのグラスを手に取り、暇つぶしのような仕草でそれを飲んだ。
彼は最初、僕に二十年間隠し通して来た出生の秘密とか、アレクシスの存在とかを知られたと知って、多少は当惑した様子を見せていたのだ。が、それもほんの少しのことだった。もしかすると内心ではまだ動揺があるかもしれないが、恐ろしいことに、彼はそういう心情的な弱みを一切顔に出さないで会話ができる才の持ち主だった。
これは兄さんが心臓が強いから幾らかはったりをかませるということか、生まれ持ったポーカーフェイスとでも言うのか、それともそろそろ中年だから経験値によってできる技なのかは分からない。しかし、今ではそれ自体がまったく大したことがないというような顔をしているのは、見事の一言に尽きた。相手が持つ有効であるはずのカードを、あたかも無意味なものであるかのように印象操作できるということだからだ。
もっとも今は相手が僕だから、そういう印象操作をしたってどうしようもないのだが。兄さんのやっていることは所詮悪あがきだった。僕は意地でも兄さんにアレクシスを迎えに行かせたいだけなので、これは高尚な会話や駆け引きじゃないし、議論自体には負けたとしてもその辺はどうでもいい。いつものことだが、このてのことで兄さんに負けても僕のプライドは別に傷つかない。だからごり押しするのみだった。
「まったく煩い。迎えに行け迎えに行けと……、たかだか使用人を何故この私が迎えに行く必要がある。ああ、人でなしで結構だね。それが何だと言うのだ、そんなことは最初から百も承知だよ。わざわざおまえに分かり切ったことをご説教頂かなくてもだ。
とにかく、おまえは少し落ち着きなさいアレックス。男が感情的になるなどみっともないぞ。それにだ、私を誰だと思っているのだね。おまえごとき子供に命令されるいわれはない。
分かったらおまえは素直に私の言うことに従い、おまえが明日にでもアレクシスを迎えに行って来るのだ。アレックスのお母さんなんだろう? 私はよく知らないが、どうもそういうことらしい。だったらおまえが行って来い。それができなければ只ではおかんぞ」
「只でおかない? ふん、じゃあどうするんですか。僕を殺すって?」
「その短絡的で生意気な口を封じるためにできることは幾らでもあるということだ。アレックス、私には考えひとつでおまえなどどうとでもすることができるのだぞ」
「いつもそれだ。脅して言うことを聞かせるとか、兄さんは無茶苦茶なんだよ」
「従わないおまえが悪い。私に口答えをして許されると思っているおまえの根性が気に入らない。私の温情につけ込んで物事が通ると思っているその甘ったれた根性がだ」
「論旨をそらそうったって駄目だ。僕の根性なんて今はどうでもいいんだ。兄さんはアレクシスを迎えに行ってよ。貴方が行かなきゃ駄目なんだ」
「煩いぞ。大人には大人の事情というものがあるのだ。アレクシスの息子ならばおまえが行って来い。それが道理というものだ」
「何が道理ですか、寝言を言うんじゃないんだ」
「アレックス、私の寛大さにも限界がある。誰に向かって口を聞いているのか、おまえはよくよく考えてみるがいい」
「父上です」
「……」
兄さんは少しぼんやりと僕の顔をみつめて、それからはっとしたように顔を引き締めた。
「馬鹿、父上じゃない」
「あっ、もしかして今ちょっと照れた?」
「違う」
「いや、そうだよ。兄さん貴方父上って言われて嬉しかったんだ」
「アレックス」
「父上」
「……」
兄さんが、また言葉に詰まるのを見て、僕はこの見たこともないような光景がおかしくてたまらなかった。僕が兄さんをこれほど簡単に言い負かせるなんて、それはまるで魔法の言葉だった。
「何だよ、つまらないことでそんな反応するなんて、兄さんらしくないな」
「おまえのような子供に何が分かる」
兄さんは憤慨した。
「いいだろう。この上私に反抗をするというのであれば、ただちにおまえ名義の小切手の発行を停止し、小遣いもなしにしてやるぞ」
それはちょっと困るので僕は黙った。これから王都で暮らすとなると、何かと物いりだろう。しかし僕が自分で働くことで取る給金なんて、兄さんから貰うお金に比べると、たぶんたかが知れている。まさかの金欠生活を強いられては、独立も何もあったものではないからだ。
「何だよ、卑怯だぞ」
僕は怒って言った。
「権力の使い方を教えたまでだ。感謝しろ」
それから兄さんは二度ほど軽く手を叩いた。間もなく兄さんの傍らの空間に魔法陣が浮かび、ルイーズが広間に現れる。
「お呼びですか」
腕利きの魔術師といえども、いつも千里眼を張り巡らせて監視状態でいるわけではないらしい。もっとも兄さんと僕がいがみあっている理由が、通常、大抵は取るに足らないことなせいかもしれないが、どうもまだ事の成り行きを掌握していないらしいルイーズが、自分の赤い爪を見ながら暢気に言った。彼女のセクシードレスは本日は真紅だった。体型の分かるぴったりした赤いドレスの裾や胸元に、チャコールのレースが覗いている。
兄さんはそんなルイーズを見て、気まずく言った。
「この子供に全部ばれた」
「あら、何がですの」
「アレクシスのことだ」
「あらっ、な、何がですの?」




