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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
202/304

第202話 憧憬の先に

愛とは世界を覆う絶望の暗闇を、煌々と照らし出す光のようなものだ。

それは微かな月明かりかもしれないし、燦然と君臨する太陽かもしれないし、燭台の灯りかもしれないが、とにかくそのように僕は思った。

その本質を僕はまだよく分からなかったが、これは僕に限っての話であって、若い人間のすべてがそれを知らないと思っている大人がいるとしたらそれは大間違いというものだろう。

つらい人生に垂らされた一筋の救いの糸のように、少女だった彼女はきっとそれを信じていたはずだ。何処かの合理主義者があっさりそれをハサミで切って捨てたために、アレクシスはすべてに絶望して、頭がおかしくなってしまうなんてことに、なってしまった一因にはなっただろう。希望のない、見捨てられた人生に耐えられずに。

泣きながら僕を恐れるアレクシスの姿が、目に焼きついている。

メイクひとつしていなくても、彼女とは本当に、なんて素晴らしい美女だと誰もが思うような美しい女だった。それなのにアレクシスのこれまでの二十年間には、同じ年頃の女性たちが当然に味わって来た楽しさなんて、ひとつもなかっただろう。恐らくろくに化粧もできず、お洒落も楽しめない。錠つきの牢獄に、囚人もさながらに閉じ込められて、ときどき巡回して来る凶悪な支配者によって、強制的な性交渉だけが延々行われる人生。

ルイーズの記憶の中での傲岸な様子を思うと、トバイアは女のことを平気で殴りそうに思えるし、あの忌まわしい別荘の舞台で見世物にされただろうし、正気がなくなった後には子供まで産まされるし、もはや地獄以外の何物でもなかったはずだ。

そんなアレクシスの人生を見て、兄さんは果たして自分が彼女にした仕打ちの酷さを、たとえ仕方がなかったという理由があるにしても、肯定できるものだろうか。自分が手を離しさえしなければ、これほどむごいことにはならなかったという自覚があるのだろうか。

だが目の前で肉料理を楽しむ兄さんに、そういった感傷は一切ない。彼は女が欲しければ幾らでも女を抱くし、上等な衣装で身を包み、いつだって好き勝手に振る舞うのだ。

僕はその晩居城に戻り、兄さんと二人きりの食卓についていたが、世界が大きく変化をしたにも係わらず、彼はいつも通りだった。

アレクシスが生きているというそれまでとは異なった人生軌道に移った今、兄さんがいったいどんな顔をして彼女のことを思っているのか、僕は城に帰り着くまでは幾らかの感傷を期待していた。が、兄さんは特にそれまでと変化がない。どっちかと言うとそれまでよりもずっと薄情だと言わざるを得ない態度、つまり彼女のことなんて知らん顔だ。

公安に保護されているアレクシスを、迎えに行こうなんて気はないようだったし、それどころか、僕に彼女の存在を打ち明ける素振りもない。

確かに兄さんは幼い頃の初恋なんてものにしがみついているタイプには思えないが、もう愛なんて冷めてしまったのか、それともそもそも最初からそんなものは兄さんにあったのだろうか?

ませた少年の興味本位で、何でも自分の言いなりになる気弱な少女を、単純に弄んだ程度のことだったのではなかったか。利発なルイーズだと後からごちゃごちゃ言われそうだが、アレクシスならいかにも泣き寝入りしそうだったからではなかったか。子供が出来たから父上やティファニーを巻き込むようなことになったものの、そうでなかったら彼はいかにも……。つまり僕のときは初犯だから、若かったから、さすがに妊娠した女を処分するなんて冷酷な手段を思いつかなかっただけだったのではないのか。

確かにそれくらいでないと、領主なんてものは務まらないのかもしれない。

だが、そうだとしたって、ここはもう、男の僕が出て行かなければならない状況だろう。アレクシスは僕のお母さんだ。だからお母さんを虐める人間には無条件に腹が立つし、あんなふうになってしまうほどにお母さんを見殺しにした兄さんに対する怒りが、僕はどうしても湧いてきてならなかった。

しかし僕はただちに胸を張って「貴方が見殺しにしたアレクシスを、この僕が助けたのだ」とは、兄さんに主張できない事情があった。

確かに僕が人を殺したことには違いなく、そういう記憶があるわけだし、拳銃の弾だってすっかり空になっていた。僕は確かに血みどろの現場に居合わせ、アレクシスを襲う死と戦ったのだ。そして見事、拷問吏と公爵夫人に化けた死を退けた。だから今更「僕は人殺しなんてできない、僕は兄さんとは違うんだ」なんて寝言を言うつもりは毛頭ない。ここは是非とも昼間起こったことと僕の活躍を兄さんに言って聞かせたいのだったが、厄介なことは、どうにもゴーシュがあの一件を認めようとしないということだった。

あの場面にいた人間のうち、上述三名は僕が殺してしまったし、アレクシスは正気がないわけだから、この話の一部始終は後は残りの当事者である僕とゴーシュ以外には知りえないことなのに、ゴーシュはとぼけるのを最後まで撤回しなかった。

となると、一連の奇跡的な出来事は、僕が見た夢ということになる……。

どう考えてもあれは絶対にゴーシュの魔法と、僕の勇気ある、果敢で英雄的行動によって未来が改変されたということのはずなのだが、それ自体が正史となってしまい、アレクシスは運よく虐殺を免れたということになってしまっている現在、ひとりとして証人がいない以上、不本意なことだが世間的にはこれは僕の妄言ということになってしまうのだ。

「僕が時間を遡って過去に戻って、アレクシスを護った。ついでにウィシャート公爵夫人を殺して来た」……客観的に見ると、確かにちょっと頭が変な人々が、言っていそうなほらという印象は拭えない。

そして死んだはずのアレクシスは確かに生きていて、公安局に保護されていた。

僕はあれからその足で王宮内の一室にいるアレクシスに面会に行ったが、彼女は確かに生きていたのだ。男性を恐がり、ときには男性を見るだけで悲鳴を上げて錯乱するそうなので、彼女の周りには女性の職員や召使いばかりが配置されていた。

サンセリウスにおいていまや兄さんは力のある貴族の一人であるため、彼女はアディンセル家の姫というような特別の待遇で扱われていた。もっともアレクシスの実父が誰であるかを思えばこれは当然の待遇ではあったし、実際、別の伯爵家の姫が同じような目にあって紛れていた先例があったので、公安局側としては将来的な軋轢を避けるための用心のためということもあるだろうが。

でもとにかくそういう事情のため、僕はあまりアレクシスの側に寄ることができなかったし、お母さんに拒否されるなんて、心情的に少なからずつらいものもあり、僕は結局連れ帰ることができなかったのだ。

そして今はいったいどうやって話を兄さんに切り出そうかと、悩んでいるところだった。

僕はやっぱり兄さんほどには冷徹に物事を見ることができないし、だからできればアレクシスを代弁して、若い義憤のまま怒りをぶつけてやりたいのだが、テーブルの向かい側にいる兄さんと相対するとどうしても気後れしてしまうのは、これは子供の頃の悪い癖なのだろう。

しかし、僕は理性的な大人になる必要があったのだが、それは断じて冷酷な人間になるということとイコールではなかったのだ。

だから兄さんがアレクシスを見捨てたことや、アレクシスが生きているのに彼女を迎えに行く様子がないこの恐ろしいほどの冷血ぶりには、今こそガツンと言ってやらなければならない。

そう、僕はいまや自分を猫だと思っている虎だと自覚しなければならないのだ。


「アレックス、食べないのか。好き嫌いは許さんぞ」


兄さんが僕の無言の憤慨に気づいたのか、じろりと僕を見て釘を刺した。

……やっぱりそれはちょっと言いすぎかもしれない。

自分を仔うさぎだと思っている、大うさぎくらいかもしれない。

しかし大うさぎだって大したものだ。畑の作物を食い荒らす荒くれ者だし、もぐらくらいには勝てるはずだから。バッタや蟻を踏み潰すのだ。


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