第201話 ファンタスティック!(9)
ドアの開く音に、僕は畏まった。
「君には頼みたいことがある」
トワイニング公が退室された後、入れ替わりのように戻っていらしたアークランド公が、数枚の書類を手に僕の前にやって来た。彼はリドリー卿の立ち去ったドアを注意深く振り返り、彼がいないことを確認し、それから僕の正面ソファに腰かけて、それを僕に手渡した。見るように促され、僕は書類に目を落とした。
「これは……」
「トバイア公が囲っていた女のリストだ。彼が性奴隷にしていた女性たちだ。
彼というのは少年の時分から非常に女性が好きでね、とにかく女が好物で――、私はいつも辟易して見ていた。公の中年の姿しか知らない君には少々想像がつかないかもしれないが、あれでも若い時分には素晴らしい貴公子だったのだよ。長身の金髪貴公子。自信家で、彼の立ち振る舞いには国中の娘たちが熱狂していて、その人気ぶりは現行君の兄上よりもすごかったかな、まさに入れ食い状態だった――」
アークランド公は、トバイアに対する懐かしみとも、恨み事とも取れる話をした。
僕は話を聞きながら書類を読んでいた。死亡者リストと銘打たれたその十六名のリストを、穴が開くほど繰り返し確認したが、アレクシスの名前はない。
「このリストにない女性というのは、あるのですか」
「身元不明の女の遺体なら数え切れない。そこに挙がっているのは少なくともウィシャート公爵側についていた諸侯の縁者だ。それなりの身元の保証のある娘たちだよ。
で、話というのはだね、現在一名、我々が保護している女性がいる。閉じ込められていた部屋のグレードから言って、そのリストに加えられていていい身分のお嬢さんだが、運よく胴体や手足をバラバラにされるのを免れたのが。だがなにぶん気がふれていて正体がないのだよ。
私の配下の公安局が、救出作戦を展開していたその当日は何しろハチャメチャだった。アナベル姫が偶然入り込んだ賊に銃殺されるという事件が起こったりしてね、現場は犯人追跡に大混乱、トバイアの末路に相応しい、呪わしい事件だったよ。
だがまあ結局トバイアはアナベル姫を愛していて、彼女を一緒に連れて行ったっていうことなのではないかなんて、皮肉が飛んでいるよ。少なくとも、アナベル姫には本望だったろうってね。ハハハハ。まあ、今となってはそれはどうでもいいことだ。
アレクシス? そう、いま話題にしているのはその名前の娘だよ。先刻リドリー卿が君に話していた彼の娘で間違いない。
アディンセル家からの上納品で、名前がアレクシス、金髪碧眼に、年代からしてもまずそのはずだ。ところがギルバート卿に言ってもなかなか引き取りに来ないので、どうしたものかと思ってね、だから君にこうして話をしているわけだ。
他の生存女性らは先週までにだいたい家族かその使いの迎えが来て、各々故郷に帰って行ったのだが、当該女性の場合、何しろ精神がやられているからな。気の狂った娘をいきなりトワイニング家へというわけにもいかんだろう?
なのにアディンセル伯が取りに来ない。国境を任されることになった卿が忙しい事情は、私としても分かっているのだがね。だから君、何とかしてくれるかね」
混乱する頭でアークランド公の王宮執務室を出ると、画家のゴーシュが近寄って来た。
「こんにちは」
僕は得も言われぬ感情が湧き上がって、今にもゴーシュを胸に抱きしめたいほどの気持ちで、思わず涙のにじむ目を彼に向けた。僕はこの夢のある存在と奇跡的な出来事に、感動感服してあまりある気持ちだったのだ。
「君が……、やってくれたんだね?」
僕は深い感謝を込めてゴーシュに言った。
しかしゴーシュは不思議そうに首を傾げた。
「僕、何かしましたっけ?」
「とぼけなくていいよ。このことは、誰にも言ったりしないから。君が実はすごい魔法使いで、しかもサンセリウス建国時代にいたっていう守護聖竜でさ!
特別の、掟破りの魔法を使って時間を遡って、僕を、そしてアレクシスを助けてくれたって!
今でも考えただけで興奮するよ。自分に秘められていた狙撃の才能も然ることながら。
僕ってすごく理性的な大人だし、常識的な男なんだけど、やっぱり実際のところ内心ではこういうのを、待っていたっていうのかな!」
だがゴーシュは更に首をこてんと傾げた。
「何のお話か、よく分からないですけど……」
「何言ってるんだ、すっかり未来が変わってるじゃないか!
だって、内務卿の話では、最初は死んでいたはずのアレクシスが、やっぱり生きてるってことになってるんだよ!」
ゴーシュは分からないというように、真顔で首を横に振った。
「ちょっと待って、それどういう反応? それじゃあまるで僕が夢でも見て、妄想を口走ってる頭のおかしい人みたいじゃないか。でもそれってどっちかって言うと君の領分だろう?
ついさっきのことだ、よく思い出してみてよ。ほら君、出身地は何処だ? 天の王国だろう!?」
ゴーシュは目を丸くして、それから優しい笑顔になった。
「僕は、この王都で育ちました。孤児院にいたんですけど、その頃によくそんなことを想像していたなぁ。僕の本当のお父さんとお母さんが天の王国にいて、いつか僕を迎えに来てくれるって。僕はこの世界の誰よりも特別な子供だってね」
「ちょっと待て、君、僕のこと頭がおかしいって思ってるのか?」
想定外の反応に、僕は慌てた。
「いやだなぁ、思ってませんってば」
「じゃあなんでここでとぼけるんだ」
「とぼけてないですよ。ただ僕、貴方の言っていることが分からなくって。
アレックスさんって、とってもロマンチストなんですね。とってもすてき。よくそう言われませんか?」
「えっ、まあ、僕はロマンの分かる男なんだけど……。かなり素敵だと思うし……」
「あっ、カイトさんだ!」
ゴーシュが廊下の向こうから歩いて来るカイトをみつけて騒ぎ出した。
「こんにちはっ! こんにちはカイトさんっ! 僕だよっ!」
ゴーシュがはしゃいで大きく手を振る。カイトがぎょっとして、それからさっきと同様当惑気味に手を振り返す。
ゴーシュはカイトが側まで来ると、さっそくカイトに纏わりついて、纏わりつかれたカイトは迷惑そうな視線を僕に向けた。
僕は納得がいかなかったので、それからしつこくゴーシュに聞いたのだが、彼は僕にそんな話を打ち明けるつもりなんてないのだろう。埒が明かなかった。
「ねえ、君っていったいどういう人なの? 絶対変だよね。
さっきのことが本当のことだとしたら、最低でも、君ってとんでもない腕利きの魔法使いってことなんじゃないのか。悪用すれば、世界を支配だってできるよ」
「僕は、普通の絵描きさんです」
「いや、そうじゃないよ」
「じゃあ、愉快な絵描きさんです」
「そんなことない」
「ええぇ、じゃあ、夢見る絵描きさん」
だがゴーシュは意地でも口を割らず、子供のように澄んだ目を僕に向けるばかりだった。
やがて僕は、何となく脱力した。
と、そこでまたゴーシュはいきなり大袈裟に両手を振りだした。ほとんど突拍子のない子供のようなタイミングで、たった今カイトが歩いて来た有翼乙女たちの居並ぶ廊下の方だ。
「フレデリック様、フレデリック様、ちょっとお願いがあるんですっ」
予想していなかった名前が連呼されたことで、今度はそろってぎょっとした僕とカイトが、同時にそっちのほうを見た。
廊下の交差のところでは、確かにフレデリック王子御本人が、何人かの部下を連れてこちらを見ている。
彼は白い衣装に青いマントを着ていた。相変わらず、見ているこちらが畏怖を覚えるほどの素晴らしい美貌だった。あまり機嫌がよさそうでないのが気になったが、そのせいか夜会の頃より幾分大人びた様子にも思える。僕は慌てて廊下に片膝をついた。カイトもそれに従う。
それなのにゴーシュときたら、世継ぎの王子を相手に、引き続き普通の友人を相手にするかのような遠慮のない態度で言った。
「フレデリック様ってば、ちょっと聞いてくださいよう」
「ゴーシュ、おまえはそこで何をしている」
「あのね、アレックスさんが、貴方に是非お願いしたいことがあるんですって。とっても急ぐことなんですって。でも、なかなか謁見の申請が通らないみたいなんです。だから、今から時間を貰えますか?」
王子様の御予定に割り込もうなんて、何を言うんだと、僕は言えずに立ち尽くしたが、それ以前に僕はひとつの重大な問題に気がついた。
僕が殿下に謁見の申請をしていることなんて、僕はゴーシュに一言も話していない……。
フレデリック様は僕を見て、それから少し考え、もう一度宝石のような双眸を僕に向けた。
「私はこれから出る。おまえは謁見希望を出していたか」
僕は恭順を崩さずに頷いた。
「だが話が来ていない。バンナード、握り潰したか?」
殿下はすぐ横に控えていた長身の若い騎士を見た。
騎士はしれっと言った。
「いえ、そのようなお話はこちらに届いておりません。恐らく何処かで手違いがあったものと思われます」
「そうか」
「フレデリック様。僭越ながら未成年者の貴方様に言上仕ります。そのような下位者たちの前で僕を叱責することは感心致しかねます。公爵家の出である僕の名誉に係わります」
「お願いフレデリック様、できるだけ早く会ってあげて。彼の大切な人のことで、とても困っているみたい。でも貴方の助けさえあれば、とっても簡単なことなんです」
両方から要求を向けられたフレデリック様は、特に判断に迷うこともなくすぐにおっしゃった。
「そうか、ではよし。アレックス・アディンセルは三日後午後二時に私の部屋に来い。話を聞く。以上だ」
そしてフレデリック様は気取って金色巻き毛を掻き上げ、先を急がれた。
バンナードとやらが、立ち止まったまま面目を潰されたと言わんばかりの鋭い目を僕らに向けていたが、やがて他の人々を追いかけ殿下に随行した。
フレデリック様御一行が完全に立ち去ってしまわれた後、ようやく声を出して僕は慌てた。
「ねえ、今、部屋っておっしゃった!?
ゴーシュ、部屋って、僕が殿下の私室に呼ばれたってこと?
それも三日後に来いって、殿下への謁見希望が即日通ったってことっ!?」
「フレデリック様は、頼られたら嫌とは言えないタイプなんです」
「それにしたって君、ああっ、今日は何だか、奇跡みたいなことばかりだよっ!」
するとゴーシュはにっこり僕に微笑みかけた。
「人生とは、そうでなくっちゃ。ファンタスティック!」




