第20話 伯爵の魔女(1)
楓の葉の舞い散る霊園の小道を歩きながら、僕は一人静かに考え続けていた。
思考することは、子供の頃から慣れ親しんだ誰よりも親しい友人そのものだった。
僕は同年代の同性の子供たちと走りまわって遊ぶということをしたことがなく、その代わりにいつも一人で本を読んだり、日がな一日考え事をしている子供だった。空想することも大好きだった。心の中の世界は、僕にとっては居心地のいい故郷のようなものだった。そこにはいつでも優しい物語があふれているし、シェアだって棲んでいるのだ。
だけど最近は、あまり上手くシェアのことを思い出すことができなかった。彼女のことを考えようとすると、タティのことがまず脳裏に浮かび上がって来るからだ。
そうだ、僕はあのとき、確かにタティと結婚したいと思っていた。
花の庭園を階下に臨む、昼下がりのいつもの廊下。
兄さんに対し、妾になるくらいなら暇を出して欲しいと訴えているタティの嘆願を兄さんが一蹴していたことを、極めて私情を挟まない彼女らしい言い方でジェシカが教えてくれていた。
「残念ながらあの子の身分では、閣下はアレックス様の妻になさるおつもりはないのでしょうね」
タティが兄さんに暇を請求していた話の流れから、ジェシカはそんな感想をもらしていた。
「と言うのも、ギルバート様やアレックス様の母君様というのが、私が申し上げるのはおこがましいことではあるのですが、アディンセル家の妃となるには少々家柄の劣る方だったという経緯があるんです。ですからあの方は、血統というものに少し敏感になっていらっしゃるところがあるのですよ。
よって閣下の周辺の人間の間では、アレックス様のお妃にはアディンセル家と同等以上の家の姫君を考えていらっしゃるのではないかと専らです。
もっとも、今のところは何か具体的なお話があったわけではないんですがね」
「くだらないご自分の劣等感の解消に僕の結婚を使われてはいい迷惑だ。だったらご自分の結婚相手にこそこだわったらいいのに、どうして兄さんはそうも横暴なんだろうか」
「アレックス様を愛すればこそなのです」
ジェシカは自嘲的に笑った。
僕は気まずさを誤魔化すために頭を振った。
「まあ、僕には兄さんの言いなりになるつもりは毛頭ない。
ただ……ジェシカ、僕がタティと結婚をすることで、アディンセル家の相対的な家格が落ちるということはあるんだろうか?」
僕がたずねると、ジェシカは先ほどのことにさして気を悪くした様子もなく、軍人らしく愚直で礼儀正しい口調でこう答えた。
「いえ、そこまで影響することはまずないでしょう。アディンセル伯爵家は家柄が古く、我が国の数ある地方領主の中でもその順列は高位に位置しています。
それに、ご存知のようにそもそも我が王国は古くよりの男系社会です。ですから妻の身分が多少低かろうと男性側の身元が確かであれば、タティ自身はつらい思いをすることにもなるでしょうが、世間的な評価としては大した問題にはならないと思います。ときには下働きの娘が、領主に見初められたなんて話もあるくらいですからね」
「じゃあ、タティとのことを……、兄さんを説得する余地はあるわけだ」
「アレックス様は、タティのことがお好きなのですね」
ジェシカは普段はあまり会話に自分の感情というものを差し挟まない人間だったが、その言葉を口にしたときは、道理を重んじる騎士らしく少しだけ批判的な彼女の思想と、悲しみのようなものが読み取れた。
だけどそれが僕には、彼女が兄さんを想っているが故なのだと分かって、憎めなかった。
「……うん、たぶん。でもよく分からないよ。こういうの、慣れてないんだ。
ただずっと一緒にいて欲しいと思っていた。それはタティだけじゃなくて、兄さんや、ジェシカ、カイト……大事な人たちが、ずっと変わらずにこのままでいてくれるのが僕にとってはいちばんなんだ。
できれば誰ひとり年を取らないで、父上みたいにいなくならないで……みんながずっと、このままでいてくれるのがいいと思っている。
でもそれはできないことだよね……、僕はもう兄さんと話しをするとき、彼を見上げる必要がなくなっているし、カイトはいつの間にか女の話ばかりするようになった。そして僕はタティを失いたくないんだ……」
それから僕はジェシカと別れ、そのまま兄さんの私室に押しかけた。
それは居城の厨房前でタティと酷い喧嘩になった日から、更に何日かが経過した頃のことだった。そう、まだ暑い日が続いていた頃のことだ。
兄さんはその頃アディンセル家の各所領間を毎日慌しく動きまわっていて、やっとその午後になって時間が空くという情報を仕入れた僕は、午前中から彼がプライベートな時間をとるのを待ち構えていた。
兄さんがお留守の間、兄さんの執務の一部であるローブフレッドの行政を預かっていた僕は、その報告を口実に部屋に割り込み、彼との面会をちょうど果たそうとしていた金髪の女性を少し強引に人払いした上で、兄さんが踏ん反り返るソファの前に歩み寄った。
豪奢でありながら過ぎ去った懐かしい時代を感じさせる代々のアディンセル伯爵当主の部屋は、現在の持ち主の気性に相応しく、また我が家の紋章にも使用されている楓の赤と金色が調和して独特の高級な雰囲気を醸成していた。ここに父上がいらした頃、このリビングの色調は青く整えられていたという話を聞いているが、兄さんはそれを嫌って、伯爵となるやカーテンから絨毯から変更できるものをすべて取り替えてしまったのだそうだ。
書棚近くのカナリアの金時計が置かれた机のところには、兄さんの魔術師であるルイーズがそのカナリアの化身みたいに腰かけていた。彼女はとても美しく、僕が知っている他の女の人たちとは美しさの格が違っていた。髪が短いために小ぶりな顔の輪郭や、細くて真っ白な首がすっかり覗いていることもあるんだろう。彼女は黙っているとき、そしてもう少し化粧を薄くしてさえいるなら、人形みたいに可愛い人だった。
それにしてもルイーズがどうして兄さんと女性との逢瀬の場にいるのかが分からなかったが、彼女はまるで兄さんの側にいることが当然の顔をして微笑んでいた。
そのことが余程気に入らなかったのだろう、僕が立ち去るように言いつけた兄さんの女性は、退室際に僕ではなく、ルイーズのことを恐ろしい形相で睨んで行った。
その背中が扉の向こうに消えてしまってから、ルイーズは彼女の形のよい深紅の唇を、飽くまでも上品にほころばせた。
「あら……ふふふ。彼女、よっぽど気を悪くされたようですわよ。伯爵様にお会いして、せっかく身体が熱くなっていたところだったのでしょうに、可哀想に。
アレックス様も少しはご登場の間合いを考えていらっしゃればよろしいのに、そんなに貴方のお兄様が恋しかったのかしら」
「……用があったから来たまでだよ。悪かったね」
「いいえ、悪いということではありませんのよ。ただそうすれば、もうちょっと面白いものが見られましたのにということですの」
「面白いもの?」
「ええ、面白いものよ。貴方もご覧になりたくはありませんか? いろいろと後学のために。
今の女性、お顔と態度はいまいちですけれど、とっても激しいのよ」
「……」
悪趣味だと、言うべきかどうか悩んだ末に結局は言わなかったのは、何やら楽しげに微笑みあっている兄さんとルイーズが単に僕をからかっているのか、それとも彼らに倒錯した性嗜好があるのかということを、いずれにしろ知りたいとも思わなかったからだ。