第2話 階下の庭園
春の日差しの降り注ぐ心地のよい午後のことだった。
二階の廊下の窓辺に肘をついて、ため息を吐くジェシカを見かけた。
重厚ながらも品よく体裁の整えられたアディンセル伯爵の居城には、何代か前の当主の手によって、花の咲く庭園が誂えられてある。
階下に広がるその美しい花の庭園に、兄さんが恋人の手をとって歩く姿が見えた。
金髪を背中に流し、薄桃色のドレスを着た、小柄で可愛らしい女性だった。
二人はときどき楽しげに笑いあって、少なくとも傍目からは、彼らが真実の恋人同士であるかのように見える。
どうせ夏が訪れないうちに、兄さんがあの女性を捨てるであろうことは分かっていたが、兄さんは何しろ貴公子然とした風体をしているし、誠実で甘い嘘を吐くことが得意であるようだった。
僕はジェシカの心情を察して、そっと彼女に近づいた。
何か気が紛れるような、気の利いたことを言おうと頭を巡らせたが、兄さんと年頃の変わらないジェシカがどんな話を聞いたら喜ぶのかということが思いつかず、気がつくと僕はこんなことを言っていた。
「兄さんが女ったらしだということを、予め教えてあげたらどうだろう。
つまりその、兄さんがああやって連れて来る女の人たち全部に」
するとジェシカは苦笑して、僕を見上げた。
「無駄ですよアレックス様」
「どうしてだい?
兄さんとつきあう女性たちは、そんなことは、実ははじめから承知しているということ?」
するとジェシカは悲しげにかぶりを振った。
「なぜならば、彼女たちは閣下のことを心から信用しているからです。
以前……申し上げたことがあるかもしれませんが、ギルバート様は世慣れた女を好みません。ですから目の前の女が機知に富む計算高い女であるか、それとも心根の正直なうぶな女であるか、あの方は深い関係を持つ以前に見抜いています。
そして自分を心底から信じ、頼りにするそういう女性だけを、この城へと招き入れているのです」
「それでも兄さんは、すぐに嫌になってしまうんだよね。
どんなに深く自分を愛してくれる女性であっても」
僕の言葉に、ジェシカは何も答えなかった。
ただ悲しげな眼差しをする彼女を、僕は見ていられなかった。
兄さんみたいな男をいつまでも想っているより、誰かもっと相応しい人をみつけてみたらどうだろうかということをここで言うべきかどうか逡巡とし、やっぱり言わないことに決めた代わりに僕はジェシカにこう言っていた。
「僕が兄さんなら、絶対ジェシカのことを選ぶのに。
だってジェシカは頭もいいし、仕事だってできるし、美人だし、それにとても……」
そう言いかけたとき、僕とジェシカの目があった。
それで僕は言いかけていた言葉を続けることがとても照れくさい気持ちがしたんだけど、ここでやめてしまったらあまり誠意というものがないように思ったので、僕は恥ずかしかったけれどもそのままこう続けた。
「……ジェシカは可愛いよ。すごく。
だからまるで自分が魅力的じゃないみたいに振る舞っているのが、もったいないなって、前から思っていたんだ」
僕の言葉を聞いたジェシカは、最初少し驚いてみせ、それから笑顔になり、吹き出して、そのまましばらく笑い続けた。
伯爵である兄さんの傍に仕え、普段は男顔負けの有能な武官でもあるジェシカが、まるで少女のように恥らって笑う姿はお世辞ではなく本当に可愛かった。
それからやがて、彼女は目じりを手の甲で拭いながら僕を見上げた。
「アレックス様は、ギルバート様以上にお上手でいらっしゃる」
「え!? いや、違うよジェシカ、僕は本当に……」
「ええ、分かっています。
アレックス様のお言葉、大変嬉しく、有難く、ジェシカの胸に染み入りました。
あの小さなアレックス様に、そのように言って頂けるようになる日が来たのだということを思いますと、自分が年を取ったのだということを実感も致しますが、しかし嬉しいことに違いはありません。ありがとうございます、アレックス様。
このお言葉を励みに……、私はこれからもギルバート様にお仕えしていくことができるでしょう」
そう言って清々しく微笑むジェシカの表情の端に、けれどもやっぱり拭えない哀しみがあることに僕は気がついてしまった。
誰かが悲しいことを抱えていたら、それをどうにかして取り除いてあげたいと思うことは、人間として当然のことだろうと僕は思う。
だけど、ときにはそれが自分にはどうすることもできない問題であることに気づかされて、落ち込んでしまうんだ。
そして僕らは並んで窓辺に寄りかかって、ぼんやり兄さんを階上から観察し、やがてそれに気づかれて叱責されるはめになった。
照れ隠しであろうとはいえ、恋人と手を繋いだ兄さんに悪し様に言われて、それでも笑顔でいられるジェシカのことを、僕は心から偉いと思ったよ。