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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
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第199話 ファンタスティック!(7)

ゴーシュが室内のある方向を指差した。見ると、二名の手下を従えた女が何かを叫んでいるのが聞こえ始めた。金髪を結い上げた四十代、あれはウィシャート公爵夫人だ。淫乱売春婦とか、あばずれとか、あらんばかりの罵詈雑言を口にしているのだ。

そして夫人が従えているのは、恐らくは拷問吏だろう。何故なら彼らは腰斬刑用の斧を手にしているからだ。あれは十字架を模した胴体を真っ二つにするための処刑用の斧なのだが、この刑罰は通常の斬首刑等より余程酷い処刑方法だった。人間は胴を真っ二つにされてもすぐには死なないことがあり、胴体を切断された後にまだ意識があるという酷い状態を、罪人に味わわせるためのものなのだ。斧には神の免罪の御言葉が刻まれている。

その足下に、長い金色の髪を伸び放題にした女がいる。彼女は蹲った姿勢のまま、正体なく揺らめいて震えている。着ている衣服は白く飾り気のないワンピースが一枚きり、しかも背中には血がにじんでいる。夫人に鞭を打たれたのだろうか、恐らく皮膚が破れているのだ。しかも様子からして正気がない。僕は彼女を知らなかったが、たぶんアレクシスなのだろう。

夫人が拷問吏たちに何かを命じている。目の前の女の殺害を命じている。先刻ゴーシュの言っていた通り、まずは生きながら手足を斬り落とせと言っているのだ。

僕は自分が何をしているのかが分からないのだが、とにかく、どうすればいいかと思ってゴーシュを振り返ると、彼は胸を押さえてしゃがみ込んでいた。顔色がよくない。苦悶に顔を歪めている。息ができずに苦しいと言って、今にも倒れてしまいそうな様子だった。


「息ができないって、どういうこと? 君、身体が弱いのか?」

「いいえ、そうじゃ、ありません……」


ゴーシュはまるで毒ガスの池にでも沈められた人のようにもがいている。

だがそうしている間にも、処刑斧を持つ二名の男がアレクシスに迫っている。

迅速な決断と対応が僕一人に求められていた。これは夢だ。僕は自分に言い聞かせて気持ちを奮い立たせ、剣ではなく、懐の銃を取り出した。筋肉が盛り上がった二人もの男に突進できるほど、僕は自分の剣術の腕を信じてない。それに斬りつけたとして、血飛沫を浴びなければならないほど間近で流血された後、上手く平常心を保っていられるものか自分に信用が置けない。

深呼吸して息を止め、狙いをつけて引き金を引くと、運よく一人の眉間に命中し、血が噴き上がって彼は倒れた。武器選択は正解。僕がこの手で人を殺した。しかし公爵夫人ともう一人が、僕らがこの暗がりの部屋の中にいることに気づいてしまった。


「誰なの!」


公爵夫人が怒鳴った。たぶん初見ではなかったが、僕はこれまでトバイアの細君と間近で会う機会なんて何度もなかったから、彼女に持っている印象としては綺麗なドレスを着た高貴なご婦人というイメージしかなかった。しかも十七年間泣き暮らしたアナベル姫なんて言うから、どれほど可憐な細君かと思ったのに、よくよく見ると随分苛烈な性格、しかも美しくはあるが大層冷血な風貌の女だ。オーウェル公子はどうやら断然母親似だったようだ。


「そこにいるのは誰!」


僕はその質問に答えなかった。返答の代わりに、銃を構える。こっちは自分の生命だけじゃない、一人でアレクシスまでも護り切らなければいけないのだ。

僕の銃に薬莢は全部で六発込めてある。だからまだ五発弾はある。とにかく男を倒してしまわないことには、手負いの女と小男しかいないこっちが不利だ。僕はこちらに近づいて来ようとするもう一人の拷問吏に、狙いをつけて発砲したが、はずれてしまった。

貴重な弾を一発無駄にしてしまったことに、僕はショックを受ける。侵入者は銃を持っているから注意しろということを、夫人が拷問吏に命じた。彼女は銃声に驚いて震えてしまうような、気の優しい女ではないらしい。そうしているうちにも拷問吏は僕ににじり寄り、あっと言う間に距離を縮められてしまった。

アレクシスの手足を切断するための嫌らしい刃を持った男が、今はその重斧の切っ先を僕に向けたまま容赦なく突っ込んで来る。突撃は加速し、僕は少年の頃に習った剣術師範以外には、これまで一度だって木刀以外の武器を持つ人間と構えたことがなかったのに、本当に僕に襲いかかって来るなんて嘘みたいなことで、頭がどうにかなりそうだった。

こんな危険な仕事は上流貴族である僕の役目じゃない!

だいたいが、僕を斬ろうとするとか、まともな人間のすることじゃないだろう!

従ってこんな奴は殺されて当然だと思うわけだが、人間を骨ごと切断するためのいかにも重量がありそうな斧を持っているのにも係らずその動きは素早く、僕は泣きそうになりながら振り下ろされる斧をぎりぎりのところでかわすのがやっとだった。まるで下男のようにみっともなく膝をつき、床を這ってそれを逃れる。すぐに重い斧が後ろの壁に激突する音がする。

でもその一撃を逃れたはいいが、僕には身を隠す場所も、逃げる場所もない。近くには華奢な造りの棚しかなく、幾ら何でも僕が一人で戦闘の矢面に立つなんて冗談じゃない、ギャグにもならない悪夢だが、ゴーシュは部屋の隅にしゃがんでいるばかりで役に立ちそうにない。

僕は手が震えて、この危機的な状況が怖くてたまらず、心臓が痛いほど脈打っていたが、とにかく僕以外にまともな攻撃手がいないとなれば腹をくくるしかない。そう自分に言い聞かせ、壁から斧を引き抜いたばかりの拷問吏をめがけて、急いでもう一度銃を撃った。が、慌てていたことで狙いがさだまらず、拷問吏にはかすりもせずに、今度も弾がはずれてしまった。何処か想定外のところに命中したらしい、陶器か何かの砕けるような音が聞こえる。

またしても失敗したことで、僕はもう、思わず銃を取り落としそうになるくらい、更に精神的に深いダメージを被った。残る弾は三発。それなのに誰の背中にも隠れられない。兄さんも、護衛してくれるカイトもいないから、自分で全部対処しなければならないことは大きな精神的負担だった。

ゴーシュはどうせならカイトも一緒に連れて来てくれたらいいのに、なんでアディンセル家の男子である僕がこんな汚れ仕事に巻き込まれなければならないんだと思うが、恨み事を言って逃避している場合じゃない。

拷問吏は体勢を整え、再び僕に襲いかかって来た。まるでその体力のみで押し切ってやろうとするみたいに。銃を携帯している僕を恐れる感情がないのか、それほどに僕の腕前を既にみくびっているのか、さもなければ、奴にもそうせざるを得ない何か逼迫した理由があるのだろう。

銃撃戦のセオリーは分からないが、僕は出来る限り間合いを引きつけて、標的を大きくすることにした。もう弾は無駄にできない。拷問吏が突進して来る。退路を目の端で確認し、これで駄目なら自信はないけど剣で戦うしかないと思いながら思い切って引き金を引く。今度は男の胸部に命中した。もう手が届きそうなほど近づいて来ていたので、的が大きかったのがよかったようだ。

突撃を寸断されねじ切れるようにして鍛え上げられた男の肉体が後方に倒れて行く。だが呻き声が途切れない。これではたぶん死んでない。僕は銃を構えたまま慌てて近づき、そいつの頭蓋にもう一発撃ち込んだ。

これは咄嗟の判断だが、以前ジャスティンがとどめを刺せと言った言葉が、警鐘のように頭の中に鳴ったのだ。それにデイビッドが生きている男の額に躊躇いなく剣を突き立てたことを、思い出しもした。


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