第198話 ファンタスティック!(6)
悪気はないが、僕は思わず笑い出さずにはいられなかった。
「あはは、それってすごいジョーク。だって天の王国なんて、そんなの実在するかどうかも分からないのに」
「ありますよ。本当です」
「また、またそんな。じゃあそこに僕の父上はいらっしゃるのか?」
「いえ、そこは天国とはまた違う世界です」
「誰か王様が治めているの?」
「いいえ、俗称として天の王国と呼ばれてはいますが、治めているのは王様ではありません。評議会議長が統治します。統治形態としては共和制が採用されています。
地上でも幾つかの国々で共和制が見られますが、ほとんどの国ではそれは未成熟なものです。人間のレベルが低いために、聞こえのいい体裁の裏側に、結局は社会に階級が生まれてしまうのです。人種、性別、門地による絶望的な差別が……、権力や富の集中が起こり、搾取する側とされる側という二極化が起こります。
でも天空に浮かぶ僕の故郷は、そうではありません。すべてのことは合議制をもって決定されるのですが、そこには必ず愛という要素が介入します。そこではすべての人々の幸福と利益が守られます。誰一人として見捨てられることはありません。
人々は平和で、基本行動は愛です。あそこでは夜でも鍵をかける必要がありません。卑劣な行動を取る波動の低い人間は、天の王国には住めないから」
「君はきっと素晴らしいストーリーテラーになれる。作家になるといい……」
僕は画家の痩せっぽちの姿を見ながら笑顔を作った。
「じゃあ、聖女様はどうされているの。太陽神の娘、セリウスの妻、星の名前と光の翼を持つ……」
「イシュタル様は天界にいらっしゃいます。サンセリウスでは太陽神以外の神々が重視されていませんが、あの方はそのお名前の通り、そもそも星を司る神なのです」
「ねえ、気を悪くしないでね。君、正気?」
「いいえ」
画家は僕を見上げて笑った。
「もう随分長い間、僕は正気ではありません。
僕はずっと暗闇の中にあって、大切な人たちが死んでいくのをたくさんたくさん見て来ました。この世界はとても残酷で劣悪、清らかな優しい人ほど上手く生きることができず、深く傷つけられてしまうひどい場所なのです。
ずっと長い間、愛しい人に出会うこともありませんでした。でもつい最近……、僕は初めて愛しいという感情を覚える相手と出会いました。
これはね、僕の愛しい家族のための物語でもあるんです。だから……」
画家は僕らの側に控えているカイトに目をやった。どういうわけか、カイトは先ほどから僕らの一連の会話を聞いていないようだった。すぐ側に立っているのに、まるで待ち合わせの相手が来るのを待っているような、僕らが目の前にいることを忘れてしまったかのような顔で、そこに立っている。まるで僕らとは完全に世界を隔てられているかのようだ。
ゴーシュはもう一度僕を見た。
「アレクシスさんは血を分けた妹のようには魔術の才に恵まれず、それゆえに家族から見放され、運に見放され、心が弱く、一人では生きられないほど無力……、こういう女性は人々から理不尽に軽く見られたり、軽く扱われたりして、本当に哀れなんです。
だから彼女はその生死さえ誰の歴史にも影響しないほど儚いけれど、僕は彼女のような存在こそが、本当はとても大きくて、神聖で、本当は皆の心を守るのに、何よりも大きな役割を発揮できる存在だと考えます。この地上の人々が忘れている、せわしい人生の中で、ともすれば極めて優先順位の低い価値のないものだとみなしてしまうことを、愛を……、だからわずかでも力を持っている僕らはそれを全力で庇って、護ってあげなければならない存在だと考えます。
本当は、トバイア公の魔の手にかかったそうした女性全員を助けたい。正義の剣で……、人生の時間を巻き戻して……、悲しい事を全部なかったことにしてあげたい。でも今の僕にはもうその力がありません。アレクシスさんを十四歳のいたいけな少女に戻して、人生自体を救済してあげることができません、でも……、生命を助けて愛しい人と再会をさせてあげることはできます」
「愛しい人と……」
「そうです、愛しい人です」
ゴーシュは感傷的な囁き声で繰り返した。
彼は僕が明らかに懐疑的であったことを、少しも怒っている様子がなかった。
「人生はね、本当は苦しみを味わう場所ではないんです。本当は、僕らは苦しみや悲しみを味わうために生まれて来るのではないんです。
僕らは幸いや温かさや愛を知るために存在しているんです。それがなかったら人生には何の意味もない。世界のありとあらゆる教師、哲学者、求道者、宗教家たちによって言い尽くされている言葉かもしれません、でも、僕らの本質は愛なんです。
僕らは愛しい人たちと再会するためにここに来ているんです。幸いとは何かを味わうために。そしてアレクシスさんは今こそ貴方の助けを必要としています」
「アレクシスの愛しい人は、ギルバート・アディンセル……?」
「ええ」
「僕が彼女を兄さんと会わせることができる……」
「ええ、そうです。貴方の決断が、彼女を無惨で悲劇的な人生の連鎖から救い出します。アレクシスさんが人生の最初で愛によって生み出した、貴方がです。
地獄のさなかに手を差し入れて、強引に彼女の運命軌道を引っ張り上げることですから、手段は善行とはいきません。貴方はある種の負債を背負うでしょう。
しかし貴方は結果として何人かの人々の人生の悲劇的な一幕を終わらせ、大きな果実を得るでしょう……」
ゴーシュは静かに僕に手を差し出した。
僕は躊躇いながら、ほとんど流されるままに彼の手を取った。
ゴーシュはそれを強く握り返し、僕をみつめた。
「……愛はね、ときには自分の手を血で汚すことなんです。
大天使地上監視部隊にみつかってはいけないから、チャンスは一度きり。行きますよ。これが今の僕にできるぎりぎりです。一ヶ月前にダイブします」
ゴーシュが言い、右手を宙にかざした。呪文の詠唱もなしにいきなり巨大で精密な青い魔法陣が空間に浮かび、爆風が吹いた。
「さっきから変だと思ったら、君、実は魔法使いだったのかっ!?」
彼は唖然とする僕の手を引きその中心に飛び込んだ。夏の小川をたゆたうような冷たく気持ちのいい感覚がした。去年の夏、タティと居城裏の森の小川でずぶ濡れになったときのような気持ちのいい感覚、僕らはまるで輝く青い水の中にいるようだった。
ふとゴーシュを見ると、そこには鳥の巣頭の華奢な男ではなく、もっと別の何かがいた。それは最初美しい男の姿をしているようでもあったが、その姿は次第に溶解し、巨大な躯体と聖なる翼を持ち、神聖に輝く美しい何かに変貌を遂げていく。
あれは、あれはまるで経典に登場する古代聖竜だ―――!
だがよく観察する間もなく、すぐに眩い光が頭上に閃いて僕らは何処かの部屋の中にいた。
窓のない、一転して視界の暗い部屋だ。それなりに広さのある室内には女物の調度品と、寝台がひとつ。
以前ルイーズが、彼女の記憶の中の過去の世界を見せてくれたことを思い出したが、そう思ったと同時にゴーシュが言った。
「これは記憶の世界ではありません。時間の砂に埋もれた過ぎ去った日々ではなく、現在と並列に存在している過去なのです。時間の解釈については諸説ありますが、実は時間には現在も過去も未来もないという側面があります。そもそも時間とは人間が勝手に定義した至極曖昧な概念に過ぎません……」




