第196話 ファンタスティック!(4)
国家要人との張り詰めた時間が終わった。
きっとそうだろう、そうなるだろうと分かっていたこととはいえ、アレクシスが既に死亡しているという決定的な失意の情報を仕入れて落胆するこの気持ちをどうしていいか分からず、ため息と共に廊下に出る。
人間の一生というものは、かくも容易く、かくも儚いものなのか……。
そして人生とは、これほどまでに残酷で厳しく、救いのないものなのか……。
一度も会ったことがない実の母親。その死を知らされたからと言って、僕の目から涙がこぼれることはなかった。トワイニング公のようにアレクシスを想って泣くことはない。僕は切なく、迷子のようにいたたまれないが、何処か他人事でもあり、気持ちはそぞろだった。僕は自分の心や感情を把握することができず、ひたすらに当惑していた。
悲しい気持ちはそれほど強くない。
たぶん会ったことが、なかったから……。
それにしても、やはり問題なのは兄さんだ。兄さんはこんな報告をとうに知りながら、特に態度を変えずに僕や部下たちに接し、ランベリーの整備に精力的に取りかかり、女遊びをし、仲間と酒を酌み交わし、たまに僕を可愛がったり、チェスで勝って喜んでいたのだ。まさに鋼の神経としか言い様がない。
それとも本当にもうアレクシスのことなんて忘れてしまっているということなのだろうか。
兄さんは女を手に入れるのに特に苦労も要らないタイプの人間だったし、あまりに数をこなしすぎて、所詮は女なんてどれも全部おんなじだとか、思ってしまっているのだろうか……。
爛れている。僕は苦笑した。
そして気持ちの整理はつかないが、取り敢えず、別室に待たせているカイトたちと合流しようと思って、王宮の慣れない廊下を歩き始める。
僕は男だから、簡単に泣いたりしないのだ。
「こんにちは」
と、肩を落として歩く僕の目と鼻の先に、いきなり人が立っていたので僕はもう少しで彼とぶつかりそうになった。もし僕と彼にそれほど身長差がなかったら、今頃はキスをするはめになっていただろう。彼は本当に、いきなりそこに湧いて出たみたいに、僕の歩行動線のすぐ先にいたのだ。
見ると僕に声をかけたのは、鳥の巣みたいな頭をした、あんまり身なりのよくない若者だった。痩せっぽちの身体に古着のような服、絵具で汚れた布鞄を肩からかけ、やはり使い古しのくたびれたストールを首に巻いている。まるで王都の劇場前辺りを陣取って、通行人の似顔絵を描いて日銭を稼ぐような人々のようだ。
本来であればこのての人間は、僕が相手にするような人間ではない。だが、彼は非常に好意的に僕を見ているし、あまりにも親しげに僕に微笑んでいるので、追い払うのに気が引けた。それに、何処かで確かに見たことがある顔だと思って、記憶の糸を手繰り、少しして僕は彼を思い出した。
「確か、画家……?」
彼はにっこり微笑んだ。
「あっ、嬉しいな。僕のこと、憶えていてくれたんですね」
そう、彼はたぶん昨年末の夜会のとき、フレデリック王子に纏わりついていた宮廷画家だった。あのときはマリーシアのことで頭がいっぱいだったので、あんまりよく憶えていないが、王子様に随分なれなれしくしていたので、存在くらいは認識していた。
「ええ、確かえっと、名前は……」
「ゴーシュです」
「あっ、そうそう。ゴーシュさん、でしたね」
すると彼は両手を胸に当てて、殊更感激したように身体をくねらせた。まるで恋の予感に身を投じる乙女のように。
仮にも成人男が、この異様な人懐っこさは何なのか。女の人ならこういうのも可愛いと思うが、悪いけどよく知りもしない男にこんなふうに懐かれても気色悪い。だがフレデリック様と随分親しげな様子だったことを思えば、無下にすることもできない。
「あの、それで画家さんが僕に何か?」
「貴方にお礼がまだだったと思って」
画家は僕に碧い目を向けて言った。その美しい瞳に僕は一瞬で意識を吸い込まれ、晴天の高い空が垣間見えた。意識は飛んで豊穣の雲海の上を流れ、水平線の彼方では空と紺碧の海とが溶け合う。天空が赤く染まり、ガーネットのような夕日が西の彼方にこぼれて夜になると、夜空には満天の星々が夢のように煌めいた。僕は慌てて目をこすった。
僕と彼はだいぶ身長差があったので、彼は僕のことを少し見上げていた。
「お礼?」
「ええ。そう、お礼です!」
彼は少年のように無邪気に両手を広げた。
「いったい何の?」
「それは勿論……」
画家はふと横を見た。つられて僕もそちらを見ると、まるで示し合わせたみたいなタイミングで、カイトが一人で宮殿の廊下をこちらに近づいて来る姿があった。
たぶん彼はアークランド公爵と僕の話が終わったかどうか、ときどき様子を見て来いとでも言われたのだろう。クライドやダグラスが使いっ走りをするわけがないし、となればカイトかオニールがその役目になるだろうが、まああのメンバーではカイトがそうなるのが順当な気がした。
王家の薔薇の紋章つきの、随分洒落た身なりの衛兵や、政府関係者が行き交う瀟洒な行政区の廊下。国家の財力を示すように廊下のあちこちには金の装飾が施され、薔薇や天使の乙女像が並び、天上には建国王と聖女の慈しみあう場面が描かれている。
季節は春。深く鮮やかな色彩だ。二人の周囲には薔薇の花びらと赤ん坊の天使たちが舞い飛び、光の欠けることのない、思わず息を飲む芸術が満ちた廊下だった。
ふと、台座の上の翼を持つ石像の乙女たちが、突如生命の精彩を得て動き出し、次々と軽快な足取りで廊下の中央に躍り出た。彼女たちは春のようなフリルの裾を可憐に揺らし、色とりどりの花や祝福の歌声を、カイトをはじめとする道行く人々に向かって投げ始める――、その場はどうしたことか、あっと言う間に異国のカーニバルの様相を呈した。
一人の娘が僕にも近づいて来て、そっと微笑みと、薔薇の花を手渡す。
「ねえ貴方。今って建国何年ですかしら。三百年? 四百年?」
「えっ、いや、今は六九六年だよ……」
「まあ素敵! それじゃあここはもうじき七百年祭ですのね!
星の千年祭は、それは盛大だったそうよ!
ダンスのお相手は決まっていらっしゃるの?」
「いや、あの……」
僕を上目遣いに見るその女性の胸元が、大きく開いているのだが、更にドレスの生地が透けているっていうところに気がついてしまった僕は、慌ててまた目をこすった。女の人の胸の形がはっきり分かってしまうなんて、何かの間違いかと思ったのだ。
するとゴーシュが大きく手を振って、カイトに愛嬌を振り撒いているところだった。
「こんにちはっ! こんにちはカイトさんっ! 僕だよっ!」
見ると廊下の石像の有翼乙女たちは、どれひとつとして動き出してなどいない。花びらが深秋の雑木林のように舞っていたはずの廊下は整然と厳かで、紙くず一つ落ちておらず、台座の上の乙女たちは美しいオブジェのままだ。僕は軽く自嘲した。
やはり自分ではそうと思っていなくても、きっとアレクシスのことがショックすぎて、僕は疲れてしまったに違いない。




