第191話 希望の使者(2)
僕は一瞬、カイトの話が理解できずに思考停止した。
「カイト!」
そして僕はこの思いもかけない素晴らしい提案に、飛びあがるほど感激して彼を見た。
それはこの世界のどんな知恵者の返答かと崇拝の念を抱いてしまうほどの、まさに世紀の名案だったのだ。
僕は興奮し、思わず叫んだ。
「すごい! そうか、そうだよ、その手があるじゃないかっ!
全然思いつかなかったけど、フレデリック様に頼むって手段が……、ああっ、君ってなんて……悪知恵が働くんだ!」
「悪知恵じゃなく、機転と言ってくださいよ」
「どっちでもいい! そうだよ、フレデリック様なら事情をきちんとお話すれば、タティを助けてくださるかもしれないっ!」
カイトは頷いた。
「ええ、率直に言ってそういう御性格じゃないかと俺も思います。
これが成人されている大人の王子なら、世迷言を申すなと、突っ撥ねられるところかもしれません。しかしこんな言い方は無礼を承知で言えば、彼はあのとき若い正義感を口にされていた。だから話の持って行き方によっては、意外とすんなり理解を得られるかもしれない……。
だって、彼は世継ぎの王子でありながら、平民の俺に触れたんですよ。そして地べたに這い蹲る俺を薄汚いと罵るのではなく、助けてやると……。只の従者を相手にです。口ではどんな綺麗事を言えても、あんなことは、なかなかできることじゃないんです。
だから、俺みたいな者を助けてくださると言うなら、女のタティのことはなおさら、きっと助けてくださるのではないかと」
「そうだ、あの方は金髪翠眼のセリウスと同じ姿を持っている。となれば彼はきっと、地上に降誕された救い主に違いない。
あの方なら、話せばきっと、もしかしたら……!」
暖かな春が巡ろうと、これまであの冬空を覆う黒雲のように、悲愴な感情が僕の心中から立ち去ることはなかった。
タティがいないからだ。僕は生まれて初めて真に責任というものを自覚し、権利にはそれ相応の義務がつき纏うことを改めて学び直している日々の中で、男としての誇りを取り戻しつつある毎日を送っていた。
兄さんの執務室にいて、何かにつけ自分の若さと実力不足を痛感すること。大人連中の話題には何かとついていけなかったし、彼らも誰ひとりとして僕を一人前とは扱わない。兄さんの弟だから下にも置かない扱いだが、同僚とはみなしてくれない屈辱感。僕以外に頼る人間がいないシエラを、家と州領の利益のために殿下に売り渡す決心をすること。そしてあれだけ理由をつけて逃げまわっていた剣術の訓練にも取り組んでいた。
どれも惨憺たる内容だった。僕という人物の輪郭を表すのに、あまりに的確過ぎて笑ってしまうような内容だった。僕は未熟なお坊ちゃまだった。でもそれでも、前進をしている手応えはあった。こうあるべき自分の姿というものに、それまでよりもずっと近づけている喜びがあったのだ。
けれどもそれは同時に、自分の部屋に帰っても出迎えてくれるタティがいないことに、落胆する毎日でもあった。僕がその一日をどれだけ頑張ったか、何を失敗したか、タティに話して聞かせたい夜には特にそうだった。
だから僕はずっと黒雲の下の暗闇の中にいたのだ。死の塔に閉じ込められた彼女を救うことができない自分の無力を嘆きながら。タティの死亡宣告がなされたあの日から、僕はずっと頭を抱え、髪を掻き毟って夜の中に蹲っていた。
でも突然、人生に光が差した。
冬は続かない。そんな言葉がある。苦しい状況にある人々が、ときどきそうやって自分を奮い立たせ、慰めて、つらい心に涙をこぼしながらそれでも未来の希望を信じようとするとき、しばしば用いられている美しい言葉だ。
僕らは季節が巡ることを知っている。
夜が終わり、必ず朝の光がやって来ることも。
それでも自分が暗闇の中にいるとき、そんな当然のことさえ思い出せない状況に陥れられてしまうのだ。少なくとも僕はそうだ。未来を信じられなくなり、気持ちが落ち込み、理不尽な思いをさせられて、とても立ってなどいられない。
だから僕は本当はずっと泣きたかったことに気がつかない振りをして過ごしていた。そうすることが正しいかのように。それを思い出してしまったら、泣いてしまうことを分かっていたから。兄さんの胸倉を掴んで何とかしてと喚いても、どうにもならない現実を理解できない子供ではなかったから。
不当で残酷な仕打ちが続いていた。ここは天の王国ではなく、善良で誠実で親愛なる市民は日々の糧にも苦しみ、他人を欺き、盗みをはたらく人々こそが満面の笑みを浮かべて暮らす世の中だ。
そしてアレクシスとか、タティのようなか弱くて清純な者たちが、真っ先に犠牲になってしまう地獄でもあった。
そして僕はずっと暗闇の中にいた。
でも僕は心密かにずっとそれを信じて来た……、その言葉を。冬は続かない。続きはしないのだと。
僕は今にも泣きそうになって、思わずカイトを抱きしめていた。
「アレックス様……」
「ありがとうカイト。そんなこと、全然思いつかなかったよ……、君が気がついてくれなかったら、僕はこのままタティを失ってしまうところだった……。心に蓋をして、彼女のことを諦めてしまおうとしていたんだ。本当はそんなの嫌だったのに。
大人になるにはそうするしかないと、それが成年貴族の採る選択だと、僕はずっと自分に言い聞かせていたんだ。でも違うって思ってもいたんだ、それは僕が望むやり方じゃないって。そのうち本当に大人になって、他のどんなことに妥協をすることはできても、でもタティのことだけは、諦めるのは嫌だって……。君の機転のおかげで、目の前が開けた気がするよ……」
カイトは頷いた。
「いいんです。こういうのが貴方の腹心たる者に課せられた役割だし、俺としても……。タティが死んでしまうなんてさすがに忍びなかった。彼女はとてもいい子です。何とか助けてやりたいと思っていた。
ただ、自分で提案しておきながらあれですが、やはり今のところ絶対ではないから……」
「そうだね、でも、前にルイーズとその話をしたときの言い方では、可能性がないこともないような感触がしたんだ。ただそれを識る手段がないというだけで、何処かにはそんな魔法があるということなのかもしれないと。だって彼女は魔法学者みたいだろう? きっとあるかもしれないってことは、知っていたんだと思う」
「そうだったら、それは本当に素晴らしいことです。
運命って、ひとつ扉が開くと、意外と次々転がって、扉が開いて行ったりしますからね。善くも悪くも。これが良い方向に転がってくれることを祈ります」
「うん」
そして僕はしばらく友愛を込めてカイトを抱きしめていた。その間、カイトは僕の背中を優しく叩いてくれていた。僕はカイトにこんなことをするのは初めてだった。
僕はどんなに兄貴風を吹かされても彼のことを兄さんとは思わないが、でも本当はずっと前から頼もしいとは思っていた。
その晩は、本当に美しい夜だった。
夜空には月が輝き、僕の心には久しぶりに希望の光が灯っていた。
僕はもう一度愛しいタティの手を取るための道を、それはまだ頼りなく、月の光のように淡い希望だが、暗闇の中にみいだすことができ、喜びの涙を流していた。




