第190話 希望の使者(1)
夜半をまわる頃、居城内の赤楓騎士団の訓練場を出た僕は、外が明るいことに気がついて天頂を仰いだ。
僕はここのところ、カイトに武芸の訓練を頼んでいたのだ。本当はそんなことに時間を使いたくないのだが、戦争の専門家とも言える侯爵家の男子が騎士として無能だと、ロベルト侯のように誰からも相手にもされないことになるのは目に見えているので仕方なくのことだった。
訓練場は夜遅くまで賑わっており、熱心な若い騎士たちが木刀をもって手合わせをする音が建物の外に出ても聞こえているほどだった。
資金源のあるアディンセル家では、緊急時にのみ騎士や兵士を掻き集めるのではなく、平時から多くの志のある者たちを養うという形を取っている。生活の片手間に武芸を身につけるのではなく、日頃から戦闘訓練をすることで高い給金が支払われる職業軍人たちを大勢雇っているのだ。
こうした試みの拡大を図ったのも、兄さんの代から始められたことだ。父上は戦闘行為に対して消極的な思想の持ち主だったが、ギルバート卿はそうではなかった。彼はアディンセル家を立て直すためにどんなことでもやった。
最初、僕がこの場所に夜な夜な現れることに好奇の目を向けている連中もいたのだが、何夜もすると誰も僕のことを気にすることはなくなった。僕も彼らと同じ目的をもって、必死になっている姿を認めて貰えたのかもしれなかった。
「腕は悪くないんです、やっぱり血筋ってあるんでしょうね。少しずつ、目に見えて上達をしていますよ。
アレックス様の難点っていうのは、いちいち頭で理解しようとするところでしょうかね。だからどうも反応が遅くなる。まあこれは貴方の癖なんでしょうけど」
訓練帰り、城内の高い石壁沿いを歩きながら、カイトはその日の反省を僕に話していた。
「他者を攻撃するってことに、意外とためらいがないのもいい。これは本来の性格が出ます。
後は一度実戦に参加されると、人を斬るってことの感覚が分かると思うんですけど。鉱山周辺の賊狩りは定期的に行われていますから、それは丁度いい練習になると思うなあ。今のうちに、一度経験しておくといいかもしれない。
でも血を見たらどうなるかってのが、懸案ではありますね。思い出しますよ、自分で足をちょっと切っちゃって、ぶっ倒れたときのこと。閣下が血相変えて飛び込んで来て、あんときゃ俺は自分の生命はもうないなって覚悟したもので……っと、アレックス様、聞いてますか?」
春の夜風を頬に感じながら、僕は顔を空に向けたまま、カイトに肩を叩かれてようやく彼に目を向けた。
「何を見ているんです?」
僕は夜空を指差した。
「ん? やあ、綺麗な月ですね」
カイトは微笑んで答えた。
「春の宵の……なんて歌がありましたね」
「タティは元気かな……、いや、病気なんだから元気なはずはないんだけど、僕は月を見ると彼女を思い出すんだ。誕生石が、ムーンストーンだからかな」
「いや、雰囲気も似ているんじゃないですか。決して出すぎず、ほんわかしてて」
カイトの言葉に、僕は頷いた。その通りだと思ったからだった。
「タティがこの城の離れで暮らしているのは、本当は兄さんの策略だよね。あの離れはそこそこいい建物だし、伯爵妃と同じ待遇だなんて、二十年僕に仕えてくれたタティに対する格段の温情のようにも見せかけているけど……、タティを実家に帰したりすれば、僕が勝手に会いに行くと思って、兄さんはそれを阻止するために幽閉したんだろう」
僕が呟くと、カイトは肯定するでも否定するでもなく黙っていたが、幾らか不自然な態度から、おおよそその推測が当たっていることを読み取ることができた。
僕はふとたまらなくなって、感情を吐露した。
「兄さんは、本当にとんでもないよ。僕は彼には敵わない。
こんなことになるなら、兄さんがタティを妾にするなんて言い出した時点で、彼女に暇を出してあげればよかったよ。いや、コンチータが退官するときにでも、一緒に……、どうせ魔力は消えちゃってたんだから、僕に仕えてる意味なんてその頃にはもうなかったんだ。
僕が我侭を言ったせいで、僕なんかに係わったせいで、とんだことになってしまったよ……」
カイトは僕の話を、黙ったまま聞いていた。
僕はタティがサンメープル城の離宮に移されてから、もうかれこれ三か月、彼女と会っていなかった。ときどき手紙は書いているが、返事が返って来たことはなかった。
彼女はマリーシアに浮かれていたり、馬鹿をやった僕のことを、今でもきっと怒っているんだろう。当たり前だ。振りまわすだけ振りまわして、やっぱり君が好きだったなんて言ったところで、誰がそんな言葉を信じる気持ちになれるだろう。
僕は、女の人の生命力を奪うなんて恐ろしい業を背負っていて、タティは僕のせいで死んでいくんだ。
「僕が守ってあげるって、約束したのに破ってしまったよ」
僕が言うと、カイトは理解を示すように静かに頷いた。
「タティはね、可愛いお嫁さんになるのが夢だって言ってたんだ。
でも女の人が可愛いお嫁さんでいるには、誰かが本当に守ってあげなくちゃ無理だ。
タティみたいな女の子は、強い、それこそ太陽みたいなタイプの男に護られていないと生きていけないんだろうなって、思ったりするよ。
例えば君みたいに。兄さんみたいに。積極的で、能動的な男のほうがあっているんだろうって。それにタティは陽気な男が好みなんだ。
だからカイト……、もし君がタティのことが好きだって言うなら、今の僕にしてみればそれは願ったりのことだよ。
君の手で、彼女をあそこから連れ出してあげて欲しいと頼むのに……」
僕が言うと、カイトは不思議そうな顔をして僕に言った。
「では、貴方がそうしてはいかがです。それで、貴方が彼女の太陽になったら?」
僕は小さく笑った。
「無理だよ。僕に駆け落ちでもしろって言うのか?」
「それもひとつ」
カイトは言った。
「駆け落ちね。まるで君のご先祖だ。駆け落ち三男。貴族の息子を狂わせる、余程の美人がいたんだろうね。
うん、そういうのも、悪くないね。君お得意の妄想か、夢物語なら」
僕は暗い夜の足下を見ながら呟いた。
「僕は勇敢な旅の騎士。剣を天に掲げ、塔に閉じ込められたお姫様のタティを助けるんだ……。
いいね、僕、そういうの嫌いじゃなかったよ。お伽話としてなら。
でもそれは極めて非現実的な逃避行動だ。寝室に逃げ込むのとは次元が違う。常識のあるまともな男の採る行動じゃない。カイト、僕はもう、責任を投げ出すことはできないんだよ。一人前の男なんだ。僕はもう、それまでの僕とは違う――」
「けれどもお姫様には呪いがかけられていて、このままでは遠からず死んでしまう」
カイトはまるで何か物語でもなぞらえているように言った。
「残念なことに、彼女にかかった呪いを解く方法を、旅の騎士は知らなかった。でも彼はそれを知っている可能性のある人物と、コネクションはないこともない。最近できたばかりのコネクションだが、信頼できる筋だ」
「何言ってるんだ?」
「頭使えってことですよ」
カイトは自分のこめかみをつつきながら言った。
「タティを助けるための最後にして最大のチャンスが、幸運にも信じられないタイミングで、貴方の前に転がり込んで来たことに気がつきませんか?」
僕は分からずに、首を横に振りながらカイトを見た。
カイトは言った。
「フレデリック王子と、コネクションができたってことを忘れていませんか?
世継ぎの王子なら、ローズウッド王家が抱え込んでいる秘密の魔法を識り得る立場ではないですか。神族に連なる家系なんでしょ。肺病くらい、治してしまえる魔法があるかもしれない。延命の措置くらいはできるかも。とにかく頼み込んでみる価値はある。彼の教師のような役目につくなら、確実に話は聞いて貰えるはず」




