第189話 梟の謎
その夜は奇跡の前兆のように外が明るかった。
僕は子供の頃、夜の暗闇を恐れたものだ。そこに魔物が潜んでいるような気がして、小さな遮蔽物の影が蠢き揺らぐ様を想像しては、身体を小さくしていた。随分大きくなるまで、夜間用を足すのに、コンチータのつき添いは欠かせなかったし、さすがに乳母につき添って貰うのが恥ずかしい年齢になっても、僕はいつも、かなり痩せ我慢をしていた。
だがその日は足下の暗い茂みにさえ微笑みを投げかけられるほどだった。
「ご機嫌ですな」
カイトが僕を見て言った。
「そうだね。なんでかな、さっきから気持ちが軽くて……」
シエラと結婚しないことになったことが、僕はそんなにまで嬉しかったのだろうか。それにしたって引き換えのようにオニールとか言う馬鹿の登場が確約され、それはかなり憂鬱の種だったし、あんまり気持ちが高揚するはずはないのだが。
それから連れ立って夜の廊下を歩きながら、僕はもう一度シエラのことをカイトに確認した。
「じゃあつまりシエラのことは、特に何とも思っていないんだね?」
「ええ」
「後からそうじゃなかったなんて言うなよ。やっぱり好きだったとか。そういうことは、今ちゃんと言ってくれ。ここは遠慮なんかすべき場面じゃない。でないと、取り返しのつかないことになるから」
「取り返しのつかないことって?」
カイトに訊ね返され、僕は重く答えた。
「もう手が届かなくなるっていうこと」
「アレックス様との結婚が、いよいよ正式になったんですか?」
「違う。そうじゃなくて……、それどころか、僕とシエラの結婚は白紙だ」
「えっ? そりゃまたなんでなんです?」
「シエラはフレデリック王子と学友だったらしいんだ」
僕は罪悪感を押し込める作り笑顔でカイトに言った。
「だから……、兄さんはそれを利用しろとおっしゃった。政略に」
「政略って……」
「シエラをフレデリック王子の愛人にすることで、僕の立場を確保しろということだよ。昼間のことだけどね、彼女を王子に献上しろという話になったんだ。
王子様がね、どうも前からシエラがお好きらしいんだってさ。だから、王子様の好きな女と結婚なんかしたら、アディンセル家に対するペナルティたるや向こう数十年間とんでもないことになる。殿下が王位に就かれたらそれこそ、お考えひとつでウィスラーナ家みたいなことにだって、なりかねない。
だから、早めに手を打っておくんだ。シエラは王子様に献上して、こちらは危険回避と同時に殿下の点数を稼ぐ。シエラは殿下の玩具にされて、いずれ飽きられたり、御子なんか孕んだりしたらたぶん消されるけど、こっちは安泰ってわけだ。すごいだろう、兄さんって。血も涙もないよね。結構シエラのこと可愛がっていたのにさ、いきなりバッサリ切り捨てるんだから」
「アレックス様……」
「でも僕もその方法でいいと思った。シエラを殿下に売り渡すことには賛成している」
カイトは驚いたような表情を隠さなかった。
「アディンセル家のためだよ」
僕は両手を広げて続け様に自己弁護した。
「僕は、アディンセル家と与る領地を守らなければならない。これは多くの領民の人生に関わることだ。それに何より兄さんをお助けするためなんだ。兄さんは国境領主として、これから非常に大事でデリケートな局面を迎えることになる。次期国王の信頼を勝ち取らなければならないんだ。
だからそのためには、僕は女ひとりくらい、売り渡すくらいのことができなければ駄目なんだ。僕は何を置いても兄さんの利益のために動かなければ」
僕は自分の意向をカイトに伝え、その理解を求めるべくカイトをみつめた。
有難いことにカイトはすぐに驚いた顔を引き締め、僕の意見に賛同した。
「分かります。そのお考えは州領主の弟として、非常に正しいです。俺は全面的にアレックス様のお考えを支持します」
「カイト……」
「アレックス様が、そのようなお考えを持つに至ったこと、長らくお仕えした者として嬉しく思います。
……何つうか、俺としてもね、寧ろアレックス様はそういう知略方面が得意になられるだろうなっていう予感はあったんですよ。頭がいいから。いろんな知識を持っている分、思わぬところで思考の幅も広くなるでしょうしね。だからいつも思っていた。もう少し、貴方が女子供の考え方を捨てることができればと。ただ……、疑問が」
カイトは少々不審そうな眼差しで僕を見た。
「何?」
「なんでまた、シエラ様をフレデリック殿下にその……、献上しようなんて話になったんですかね? 閣下がおっしゃったにしろ、どうも話が唐突すぎる気がするんですが、どういう経緯で?」
それで僕は、まだ事の経緯をカイトに知らせていなかったことを思い出した。
「大事なことを君に話すのを忘れていたよ」
僕は照れて微笑んだ。
「実は僕、フレデリック王子の部下になることになったんだよ」
「ええっ!?」
するとカイトがいきなり大声をあげて、僕に縋りつかんばかりに近寄った。僕の両腕を掴んで、問いただすように僕を揺すったので、僕も同じくらい慌てふためいてしまった。
「フレデリック様の!? 何ですか、そりゃ!?」
「えっ、な、何が?」
「だ、だから、王子様の部下って……」
「ああ、うん、今日のことなんだけどね、兄さんから正式に辞令が下ったんだ。僕、今度から王都でフレデリック様にお仕えすることになったんだよ。内務卿の下に所属する政務官、それに臨時で王子殿下の特別補佐官。期間限定な分、たぶん殿下のほうを優先するっていう話だったと思う」
「補佐官……ですか」
「うん」
「補佐官って……、何するんです? もしかして一日中べったり?」
「そうだね、いや、まだ分からないけど。殿下に呼ばれたときは、たぶん」
僕はこれまでのカイトやシエラの仕事ぶりを思い出し、肩を竦めた。
「フレデリック様の内務のお勉強の補佐官なのかな? 僕が教える立場になるわけじゃないみたいなんだけど、高名な先生の通訳みたいな感じでお呼びがかかったみたい。武官の出なのに思いっきり文官仕事だけど、栄誉ではあるよ。得意分野なので無理することもないだろうし、ほっとしてもいる。とにかく彼の勉強を助けるんだ」
「すごい……、勉強ができるって、本当に出世に繋がるんですね」
「出世かどうかは分からないけどね。でも、とにかくこれからは僕が、君みたいに王子殿下の側に直立していなきゃならないのかも。ずっと姿勢を正していないといけないかと思うと、かなりプレッシャーだよ。
夜会のとき、ちょっとお話した印象からすると、割とお優しい御性格じゃないかとは思うんだけど、でも何か気合いが入っていたような気もするからね。
率直に言って、若い王子を相手にするなんて、どうしたらいいかとは思っているんだ。何か共通の話題でもあればいいんだけど。僕が十七歳のときって、何に興味があったかなって思い返していたんだよ。
王子様の御趣味って、ちょっと僕には想像つかないんだけど、いろいろ話題の引き出しの準備だけはしておこうと……、お菓子作りとはいかなくても、虫が好きだといいんだけど……、あれ、君、僕の話聞いてる?」
カイトは両手を口許に当てて、何とも表現しようのない表情をして、まばたきをして僕のことをただ見ていた。
「どうしたんだ? 何だその変な反応?」




