第188話 探求と秘密主義
僕は悪い男だ。女に不意打ちのキスをされても動揺ひとつしない。こんな場面にいちいち狼狽しない。女関係が乱れているのはいつものことだからだ……、という妄想をすると、僕は見た目がニヒルなので結構絵になる場面かもしれないと思った。
明日辺り、シエラは兄さんに呼び出されて、結婚がなかったことになったことを知らされるだろう。
それですべては完全に白紙だ。危ないところだったが、殿下への献上品を傷物にしないで済んだことだし、シエラも頭を冷やせば王子様のほうが顔がいいってことに気がついたりして、僕のことはすぐ忘れるだろう。
彼女はきっと年下の子供なんて相手にできないとか思っているのかもしれないし、殿下のロベルトお兄様に似ていない快活な性格に戸惑うのかもしれないが、近いうちギルバート卿にとって代わる王宮一の貴公子になるであろうフレデリック様の魅力と、国家の支配者に愛されるというファンタジックな自分の人生に夢中になるはずだ。光のお姫様とか魔女とか言ってるお伽話が好きなシエラは絶対そういうのに酔うタイプだと思うし、まあそれはそれでちょっと癪ではあるのだが。
とそこへ、夜の庭園の闇の中から、浮かび上がるようにしてカイトが現れた。
「あ、カイト」
カイトは暗い低木の茂みの中から前に踏み出し、両脚についた葉っぱを払い落しながら言った。
「時間なのでお迎えに上がりましたら、いい雰囲気だからつい隠れちまった。
アレックス様、憶えてます? 今夜は剣術の稽古の日なんです。貴方が俺に頼み込んで、俺が貴方の先生をやるんですよ。もしかして、俺には夜の予定がないみたいに思われているかもしれませんが、まあデートの予定なんてないですけども」
「いや、そんなこと思ってないけど……」
僕はカイトがシエラのことを好きだということに気づいていたから、今のキスについて、何とも言い様がなくうつむいた。
おまけに彼女を王子殿下に売り渡すことになりそうだなんて話をしたら、シエラに恋する彼からすれば発狂ものだろう。
「美形だと、人生にはそういうイベントが目白押しなんですね」
カイトは腕組みし、恨みがましく文句を言った。
「俺は生まれてこのかた女と手を繋いだこともないのに」
「いっそ清々しいじゃないか」
僕は言った。
もっとも最近では、カイトが言うそのての自虐話は、果たして何処までが本当なのやら分からないと、思っていたりするのだが。
するとカイトは両手で顔を覆って、例のごとく泣き真似を始めた。
「……でも本当は手ぐらい繋いだことあるんだろう? 幾ら何でもさ」
僕は横目でカイトを見ながら呟いた。
当然、僕はカイトのことを疑っていた。僕はこれまでカイトの私生活になんか一切興味はなかったし、今だって特にはないのだが、何しろこれだけ社交能力があるおしゃべりな男が、女と手を繋いだこともないなんてことが、あるはずがなかったからだ。
「ぐすん、ぐすんっ」
カイトは鬱陶しい泣き真似を続けていた。
「どうも嘘臭いんだよね。君みたいに女に物怖じしない男が、それは絶対変だよ」
「ぐすん、ぐすんっ」
「君さ…、どうせほんとは経験豊富だったりするんだろう?
もてないなんて言って、引っ込みがつかないだけで、実際はちゃっかりやることやっている気がするっていうのかな。どう考えても……、君って自分で言うほど悪くないよ。別によくもないけど、少なくとも女に敬遠される要素はないよ。身分もあるし、身長もあるし、腕も立つんじゃ……、ルイーズは君のことセクシーだって言ってたしさ。セクシーって、つまり性的魅力が高いってことだよ。僕にはその辺の彼女の感性はまったく理解不能だけど、女からするとそうなのかも。マニアだけかもしれないけど。だからどっちかって言うともてるんじゃないのか?
まあ兄さんみたいにとはいかないだろうけど、僕の予想では五人くらいかな……、童貞だとかハーレムだとか適当なこと言ってたのは、あれは内向的な僕と打ち解けたいがための嘘。違うかい? そのての連帯感っていうのは、大切だからね」
「ぐすん、ぐすんっ」
「悪いけど分析させて貰ったよ。それで君は割と面食いなんじゃないかな」
「ぐっ……」
「だから好きな女はたぶん……、かなりの美女だろうね。悪いが君じゃ手が届かないようないい女だ。最初はルイーズかと思ったけど、どうも違うらしい。違うって気づいたのは、別の人物と接見した君の態度があからさまに動揺していたからだったんだけど」
「……」
カイトの泣き真似の声が止まったので、僕はやはりビンゴかと思って、言葉を続けた。
「まあいいや。つまり君、本当はシエラに気があったんだろう」
僕は言った。
「知ってるんだ。本当は随分前からね。でも、悪いが彼女のことは諦めて欲しい。
僕としても、できればヴァレリアよりはシエラを君の花嫁にしてやりたいと思う気持ちはあったんだ。君さえ打ち明けてくれるなら、シエラを君にあげてもいいと……君の幸いを心から願う親友としては。でも状況が変わってしまった」
「ええ?」
するとカイトは顔を上げて、ぽかんとして僕を見た。
「いえいえ、シエラ様に気なんてないですよ」
彼は真顔になって手を振った。
「えっ? そうなのか?」
「ええ」
「でも君、急に彼女に対して態度が変わったことがあっただろう? 確か年末までは全然そうでもなかったのにさ、年明けからかな、急にシエラにちやほやしてたから」
カイトは少しの間考え、それから僕に笑いかけた。
「ああ、そうでしたね。そうそう」
「だから好きなのかと思っていた」
カイトはかぶりを振った。
「違いますよ。あれはね、びびっちゃってたんです。ある日突然あれは侯爵家の令嬢だって聞かされて。それにアレックス様の花嫁だって閣下に教えられてね。
ちやほやするしかないでしょう? そんないいところの姫君相手じゃ。普通なら、俺なんか口も聞いて貰えないような家柄なんですよ」
「君は自分を過小評価しすぎだ」
僕は呟いた。
カイトはそれに、しみじみと同意するように頷いた。
「そら、奴隷根性ってやつなんですかねえ。閣下にも注意を受けることなんですが、どうにも性根に染みついちゃっているんですよ。卑屈さが……、自分でも自覚はあるんですけど、これがなかなか取り除くのは難しくて」
「じゃあシエラが好きってわけじゃなかったのか」
「ま、あれほどの美人に好かれているのは正直妬ましいですけど。シエラ様は、さすがに俺には高嶺の花だってことは、常識的に言って分かりきっていますしね。
だいたいあの姫君の目には、俺みたいな下々の者はまったく異性として映ってないですよ。あれはお世辞抜きで育ちがいい。育ちがよすぎて側にいるだけで卑屈になっちまうくらい。それに彼女は最初からアレックス様しか見ちゃいなかったです」
「本当かな? 無理してない?」
カイトが強がりを言っていると思って、僕が顔を覗き込むと、カイトは顔色なんか読ませまいと思ったのか過剰におちゃらけ出した。それから、また真面目な顔に戻ってこう答えた。
「神に誓って、違いますよ。そいつは貴方の勘違いです」
「ふうん、じゃあ誰が好きなんだ?」
「それは言えませんな」
「なんでだよ。婚約してもまったく嬉しそうじゃないとなると、ヴァレリアに惚れてるようには見えないし……、僕にも言えないのか? 僕らは親友だろう?
相手の女がどんな人なのかだけでもいいから。何だか見ていてつらいよ。他に好きな女がありながらヴァレリアと結婚しても、君は、それにヴァレリアだって幸せにはなれそうにない気がしてさ。
だから可能な限り軌道修正の手伝いをしてあげたいんだ。
確かに僕は頼りないだろうが、でも君が思っているほどじゃない。僕には人事の決定権はないけれども、兄さんに意見を言うことはできる。僕が何か条件を飲むことで、君の結婚相手を換える許可を貰うことはできるだろう……、前ならこんな考え方は思いつかなかったけど、兄さんはたぶん、こういうやり方なら聞く耳を持ってくれるはず。
相手の女性が独身なら、まだ何とかなるかもしれないじゃないか。必要なら、兄さんの立場を利用したっていい。そうすれば、大抵の相手とは渡りがつけられるはずなんだ」
「いいんですって」
「なんでだよ。諦めるのはカイトの悪い癖だ」
僕が食い下がると、カイトは再びおちゃらけた挙句に強引に話を終わらせた。
「だって……、それにそんなことを口にしたら、もう一回逢いたいって願いが叶わなくなっちまうかもしれないでしょ。願掛けの邪魔をしちゃ駄目ですよ。だから絶対言いません。だから秘密、秘密っ」




