第187話 夜の庭園(2)
腕を引いてキスのおねだりなんて、そんなラブリーな誘惑をされたことがなかった僕は、思わず言葉を失っていた。
これは腕利きの殺し屋も真っ青の、何という必殺殺し文句であろうか!?
君は王子様の女になるのでできません、なんてこんな場面でどうして言えるだろうか!?
「えっ、いやっ、そんな、駄目だよ」
僕は慌てふためいて言った。
「どうしてですか?」
シエラは上気した顔で、僕の腕を両手で掴んだまま、少し不満そうな顔をした。
「いや、ほら、だってあの――、そう、そうだ、いいところのお姫様がそんな、結婚前にそんなことしたら駄目だよ。シエラは知らないかもしれないけど、そういうのはね、あばずれのすることなんだ。だからそういうことは、結婚してからにしないと」
「でも、私たち結婚するでしょう」
その話は立ち消えなんだと、僕はシエラに厳しく言った。頭の中で。
「十八にもなってキスもしたことないなんて、恥ずかしいの……」
「そんなことないよ。全然恥ずかしいことない。寧ろそれっていいことだよ、十八歳なんて、ちっとも恥ずかしくないことだ。だって僕なんて十九までしたことなかったし」
僕はそれほどまずいことを言ったか、分からなかったのだが、間もなくシエラの笑顔が萎んだ。
「えっ?」
「タティさんとなさったの……?」
シエラの表情がたちまち悲しげな、しかも憮然としたものになったのだが、それが、あまりに見たことがないほど不機嫌そうな様子だったので、僕は慌てて取り繕った。
「いや、それはタティじゃない。あの、別の人……」
するとシエラが不機嫌を通り越して泣きそうになり始めたので、僕は更につけたした。
「でももう死んだ」
「いいんです、無理に嘘を吐かないで。タティさんとキスしたのでしょう?」
「いや、本当だよ」
「私なんて、きっとタティさんより魅力がないということなのでしょう?」
「違うよ、魅力とか、そういうことじゃなくて……」
もうそういう次元の話じゃなくて、君は王子様の女になるから政治的にだよ、という言葉を僕は飲み込んだ。それを言うために今夜はこうしてシエラと歩いていたはずだが、僕は夜と、庭園の花々の甘い香りと、それにシエラの可愛らしさにやられかけていた。
こんなとき、兄さんならいったいどうやって事態を切り抜けるだろうか?
兄さんなら熱いキスでもして黙らせそうだが、僕は律義な男なので、それだけはやってはいけないのだ! 良識のある紳士なら、その選択肢はないものだ!
「いいんです、そんなふうにおっしゃらないで」
シエラは囁いた。
「シエラ、あのね、つまり」
と思いきや、不意にシエラが僕の腕を引いた。いきなりだったのでちょっと姿勢を崩し、シエラは僕の唇の下に唇を押しつけた。
何が起こったのか分からない一瞬の白い間を置いて、僕はすべてを理解し青ざめた。
シエラは無理やり僕にキスをするという手段を敢行したのだが、運よく背がちょっと届かなかったのだった。
「だっ……、駄目だって、ああ、自分からこんなことするなんて!?」
僕はさすがに顔が熱くなって、うろたえた。
僕は王子様への献上品を傷物にしたらまずいのだということを第一に考えたのだが、シエラはそうではなかった。彼女はまるで今この瞬間を恋する表情で、僕を見ていた。
「はずしてしまいました……。ファーストキス、したかったのに」
シエラは真っ赤な顔で僕に言い訳した。
「アレックス様は、背が高いから……」
その恥じらう様子がかなり可愛く、僕は別の意味でまずいと思って目をそらした。この関係は本日をもって強制終了のはずなのに、今更この変なムードは何なのか。これが暗闇における男女の法則というやつか。
ともあれシエラの外見の美しさが、完全に物を言う状況だった。男の視覚に訴える強烈な魅力は、シエラのような選ばれた美人の強みだ。キスされたくらいで妙な気分になるなんて、僕は自分が考えていた以上に、非常に単純な男だったのだ。
「もう夜も遅いから」
しかし僕は理性あふれる常識的な男なので、ともすればシエラの唇に目がいってしまいそうなこの呆れた動揺をひた隠し、何とか冷静になって言った。
「そんな、もっと二人でいたいわ」
シエラは僕を見上げて拗ねた声を出した。
「怒って、しまわれたの……?」
「そうじゃないよ。でも今夜は本当にもう遅い」
「私、遅くてもいいわ」
「駄目だよ。聞き分けて。残念だけどもうおしまいなんだ。もう寝なきゃ」
「アレックス様、でも……」
「駄目だよ」
「……はい」
シエラはしゅんとして、僕の言うことを聞いた。
僕の言うことを、僕が兄さんに従うみたいに聞くなんて、可愛いにもほどがあるのだが、残念ながら本当にもうこの関係はおしまいなのだ。
人生とは世知辛い。朝になったら忘れるとしても。
結婚が取り消しになったことを伝えるのは、やっぱりまた後日にしよう。
それとも僕の口から言うのは混乱を招きそうなので、ここは兄さんがシエラに言ってしまうのを、待ったほうがいいかもしれない。
「おやすみなさい、アレックス様」
何も知らないシエラが、立ち去り際聞き分けよく可愛く手を振った。
ファーストキス未遂。少女が恋の始まりを確信するのには、十分に刺激的な出来事だったに違いない。
しかし実はもう全部終わっていることを、無邪気な彼女はまだ知らない。
「おやすみ。いい夢を」




