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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
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第186話 夜の庭園(1)

実際のところ、僕は完全にほっとしていた。

シエラと結婚しないことになって僕が感じたのは、残念だとか、がっかりだとか、そういう未練めいた感情ではなくて、苦難だとか試練だとかが目前に迫っていて、だけど幸いにもそれに見舞われずに済んだ人間が感じるような、ひたすらな、脱力するみたいな安堵感だった。

僕はシエラを美しいとは思うけれども、まったく気持ちが惹かれてはいなかったのだ。美人だから他人に対する自慢になるとは思っても、それが所詮はいい服を着るとかいい馬を持つとかそういうようなことであることには気がついていたが、まさかこれほど……、気持ちが楽になるとは思わなかった。

だからこれまでシエラと夜のデートだけは極力避けていた僕だったが、その晩は誘われるまま居城内の夜の庭園を散策していた。微妙な距離を保ったまま。心の負担はできるだけ早めに片づけておいたほうがいい。つまり婚約解消になった話を、僕の口から今日のうちに打ち明けてしまおうと思ったのだ。

距離を保って歩いているのは、言うまでもなく僕だった。シエラはさっきから何とか手を繋ごうとしているのだが、僕はもうそれに応じるわけにはいかないので、シエラが白い手を伸ばすたびに頭を触ったり、その辺の木の枝を触ったりした。

彼女は本日の午後をもって僕の結婚予定者ではなく、王子殿下の愛人となることが決まった娘だからだ。高貴な方に献上する女に、手なんか触れられるわけがなかった。

季節が春めいてきた頃から、庭園の草木は一斉に芽吹き、香り立つように花を開かせた。庭師が出入りし、花壇には咲き零れるほどの花々がひしめいていた。

でもこの世界は何とも醜悪だ。少なくとも兄さんがこれまで生きていらした世の中は。それは一度は結婚相手だと決まっていた女さえ、状況によっては上司となる人間に差し出すことが当然の非情な世界だったのだ。

僕はシエラに対してあまりそうした特別な感情を持っていないから、この決定を苦痛とは思わなかった。フレデリック王子はとても美しい方だし、人格が悪いという話も聞かない。それに殿下とシエラが知り合いだと言うなら、これは女性としてもそんなに悪い話ではないのだろうと、納得するための材料は多かったからだ。

でももし僕がシエラを愛していたなら――、これは身を切られるような過酷な決断を、自分に強制しなくてはならない状況なのだろう。

かつて兄さんが初恋のアレクシスを、トバイア公の身勝手によって没収されたことと同じように。

僕の隣を歩くシエラは、今夜もとても可愛かった。彼女は本当に、劇場の女優なんてものが色褪せるくらい素敵な美人だった。

王子のことをどう思っているのか、そんな話を切り出してみようかと考えていた。彼女を政略の道具にするために、できるだけ高く彼女を殿下に売り込むための方法を、講じるために。

シエラはそんな嫌な世界を知らない、少女のあどけなさを持っているのに……。

僕はもう、シエラのことをそういうふうな目で、品物を見るような目で、値踏みしている自分に気がついてちょっと呆れた。

僕はこれまであれほど嫌っていた汚い大人に、軽蔑していた兄さんのような考え方をする大人に、いつの間にかちゃんとなっていたのだ。それでもこうやってまだ割り切れていないだけましなのか、それともさっさと割り切って、慣れてしまったほうがいいのかは分からない。

恋愛事など、権力を持ち、所領や国家に影響力を持つ兄さんのような人間にとって、所詮はこの程度の優先順位なのだと改めて思い知った日でもあった。彼は理想とか、愛する女のために生命を捧げるようなことを愚行と認識する大人という人種だった。理想や革命に身を投じて死に急ぎたがる若い感傷で損失を被るような真似はしない、けれど彼は憎むべき人間では決してない。彼は模範的な指導者なのだ。アレクシスのために感傷に浸るようなことなんて、今の兄さんにはないのかもしれない。

お姫様育ちのシエラは、僕のそうした逡巡など知らない無邪気な笑顔だった。

可愛いシエラに素直に恋していたら、今夜は王権に引き裂かれる悲恋の恋人のごとく、ドラマチックな人生の一瞬を過ごしていたのだろうか――。


「アレックス様はときどき何処か別の場所にいらっしゃるみたい」


シエラは僕を見上げて言った。


「ああ、ごめん」


僕は我に返って隣を歩くシエラを見た。


「考え事をするのが癖なんだ」

「ロマンチストね」


シエラは微笑んだ。


「夢をご覧になるの?」


シエラは僕にたずねた。花の庭園の石畳の上を歩く可憐な少女、月の光に照らされた彼女の肌はますます白く、結い上げられた長い髪には微かに月の光が躍って、とても神秘的に思えた。僕は笑った。


「白昼夢ってわけじゃないよ。つい考えてしまうだけなんだ」


僕はシエラと結婚しなくて済むことになってはじめて、気楽な気持ちでシエラと話していた。


「どんなことを?」

「うん、いろいろなこと。そのときどきで」

「哲学者みたい」

「ありがとう」

「フレデリック様は夢を見るのですって」


僕は一瞬、動揺してシエラを見た。


「へ、へえ、フレデリック様が? そう、どんな夢を?」

「分からないわ。過去や未来のことを見るのですって」

「予知夢とか、かな?」

「でも、あまりいいことじゃないそうよ。つらい夢ばかりだとおっしゃっていたわ。そのお話を伺ったのは、もう随分前のことになるけれど。あの方がめずらしく弱気なことをおっしゃったので、憶えているの」

「彼が心配?」


僕がたずねると、シエラは微笑んできっぱり首を横に振った。


「フレデリック様はお強いから一人で平気よ。それより私は貴方の傍にいたいの」


まずい雰囲気を察したのは言うまでもない。シエラは僕の腕に腕を絡めようと手を伸ばしかけていた。僕は逃げようとしたが、女の手をぞんざいに払い除けるわけにもいかず、僕は掴まった。


「アレックス様、お願いがあるの」


シエラは満足そうにして僕の腕にしがみつき、それから何処か潤んだ眼差しを、うっとりと僕に向けた。今が昼間ならばまず起こり得ないであろう会話の続きを予見して、僕は焦った。


「私ね、まだ一度もキスをしたことがなくて……」

「あっ、そ、そうなの」

「だから……」


シエラは恥ずかしそうに睫毛を伏せて、僕に囁いた。


「キス……、してください」


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