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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
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第184話 辞令(1)

幾年月を経て、とうとう男としての度量を試されるときが、やってきたのだ。

大人になっても僕はあのつらく苦しい経験を忘れたことはない。アディンセル家の男子である僕を、将来自分たちの生活も人生もいかようにでも攻撃出来得ることになる権力者となるこの僕をだ、無礼にも苛めまくったあの狂犬どもに対峙することになる日が来ることを、僕は覚悟もしていた。

よってたかって小突かれ、こけにされ、膝小僧に土をつけられたあの日、僕は予感したのだ。僕を囲んで騒いでいるこの馬鹿どもを、いつかこの手で根絶やしにする日が来るのではないかと……。

僕には分かっていたのだ、僕の中には怒りがあり、猛り狂うような獰猛性があると。僕はそれをひた隠して穏便な男を演じているが、心は荒々しい山賊のような益荒男なのだ。火がついたら誰にも止められない、攻撃的で恐れ知らず、果敢で勇猛でスリリングな暴れ者だ。

しかし一方で僕は紳士だから、礼儀や良識のある者、正しい者、弱い者を攻撃したりはしない。ルイーズにしようとしたことは不本意ながら人生の汚点だが、弱者を痛めつけることの罪深さと後悔をしかと僕の人生に刻み込むことにもなった。僕はあれを戒めとして魂に刻印し、今でもとても悔いている。相手がか弱い女だからだ。

そう――、ここで言う弱者とは、飽くまでも女子供限定だ。弱者と言っても相手が男なら、痛めつけたって罪の意識なんて湧いてくるはずがない。身分的に弱者かもしれないが、それはそいつの運が悪かったのだ。僕は断固やるつもりだった。今こそ正義の鉄槌を振り下ろすときなのだ。戦の火蓋は切って落とされ、反撃の狼煙が上がった。風が強い。決戦の時は来た。大気には嵐が吹き荒れ、いかづちが渦巻き、僕は絶対に奴を生かしてはおかないつもりでいるのだ。

くしくも神の敵対者たちが、轟音の暗い嵐に乗って僕の燃え盛る勇気に喝采を送っているのが見える。牙の生えた残忍な連中が口許をほころばせ、爪の長い手を叩き、あの無法者に裁きを下してやれと囃しているのが。

僕はやるときはやる男だ――!


「アレックス」


ふと、兄さんの苦笑混じりの声がした。


「アレックス、緊張をしているのか? おまえの人見知りにも困ったものだな」


見ると、兄さんが本当に苦笑しながら僕を見ている。兄さんの執務室でぼんやりしても笑って許されるのは僕くらいのものだが、それで、僕は我に返った。

僕はさっきから兄さんの執務室にいた。

嵐とけたたましい悪魔の笑い声に満ちていた激しい幻想の世界とは対照的に、その場所は一見和やかさを保っているかに思えた。目の前の執務机には兄さんがいる。機嫌はかなりいいようだ。相変わらず偉そうにしているが、そういう姿勢が彼には似合っている。

横には、秘書のようにメモ帳を持って直立しているジェシカがいる。その向こう側の開け放たれた窓からは、木立が覗き鳥の囀りが聞こえている。そしてもう一人、若い男が僕のすぐ横に同じようにして立っている。


「サヴィル家のオニール。オニール・ヘイゲン・サヴィルだ」


兄さんは執務机について指を組んだまま、僕のやや右側後方に直立している男に視線をやった。

僕はそれに促され、人の形をした悪魔のことを見た。

彼は忘れもしない昨年末、ヴァレリアお嬢様の夜会のエスコートをしていた男だ。鼻にかけるつもりは大いにあるが、僕のほうが背が高い。

そして、僕をよってたかって苛めたメンバーの一人でもあったのだ。名前まではいちいち覚えていなかったが、招かれざる客というものがこの世にあるとするなら、彼はまさしくそのうちの一人であると言えた。


「おまえの腹心その二だな。おまえとカイトに欠けている部分を補う。仲よしグループの新しいメンバー。アレックスの新しい友だちだな」


兄さんは子供に語りかけるように僕に言った。いつものことながら、まるで自分が僕のためにいいことをしたというような、得意気な表情をしている。彼は自分のやることが絶対に正しいと思っているので、いつでも自信満々だが、僕に言わせればそのうちの結構な割合が、何とも的外れの独り善がりだ。

だから僕は疑心に震えながら兄さんを見た。雨に濡れた仔うさぎの哀れさで。

僕の右側にいるのは昔僕を苦しめた狼藉者だ、それなのにこんな酷い人選があるだろうか? 他に人材は幾らでもいるんじゃないか?

これは、兄さんはやっぱり僕を愛していないんじゃないかと疑ってしまうほどの考えられない人選だった。

この男が今後僕の側近になるとしたら、僕の毎日はとても耐えられないような不愉快さに覆われてしまいそうな気がして、僕は戦慄していた。

春先からこっち、大人にならなければならないという僕の確固たる決心は、今にも瓦解しかけていた。人間無理は続くものじゃない。嫌いなピクルスを食べたら気分が悪いから僕は今でも食べないが、それでも人生はまわっている。それこそが、世界の真実なのではないか。人間には向き不向きというものもある。要はこんな奴嫌だよと今にも口をついて出そうだった。カイトは僕を助けてくれるだろうか?


「サヴィル家の者とは聞いていましたが、僕はてっきり、つまりもっと年長の……」


僕は救いを求めて兄さんを見た。


「次男は現在逃走中だ。ジャスティンと折り合いが悪いそうでな」

「逃走中……」


兄さんは頷いた。あのジャスティンが兄では兄弟仲が荒みそうだと、兄さんも思っているような顔をしている。

兄さんはまた僕を見た。


「どうしたアレックス。表情が暗いが、緊張をしているのか?」

「いえ……」


僕は呟き、うつむいた。さすがにオニールが恐いとは、言い出せなかったのだ。

僕が何を恐れているか気づかないなんて、それでも親かと言いたくなるが、彼には分からないのだ。何故なら兄さんはどう考えても苛めっ子を蹴散らすリーダータイプの子供だったから、苛められっ子の痛みなんて思いつきもしないのだ。彼にとってはまったく悩むような問題じゃないから。


「さてアレックス、分かっているだろうが、おまえの王都赴任が決定した。これまでおまえにはろくに独り立ちをさせなかったから、私としてもこれは非常に心配なことではあるのだが、おまえも一人前の成人男子だ、ここはおまえの裁量を信用する以外にはない」

「はい」

「おまえの配属は内務卿アークランド公爵配下の内務局政務官だ。幾つかの内政部局を統括する上位機関だな。知っての通り、アークランド公は王子擁立派の代表格であり、此度の件で王位継承権第二位に繰り上がった。今後の成り行き次第では、宰相職を兼任も噂されている有力者である。

そしてもうひとつ任務がある。現在御聡明なる我らがフレデリック殿下は、行政を学ばれているそうだ。おまえは当面その補佐も任されることになった」

「……と言いますと?」

「フレデリック殿下の執政を学ぶに当たっての特別補佐官だ。簡単に言えば彼の勉強を助ける係りだ。言っておくがこれは家庭教師ということではない。そういう大役は国内トップクラスの学者が担うからな。

だがそうした連中の中には、理論構築には優れていても、教育者としては非常に不向きなのがいる。子供相手に専門用語を羅列するようなのが。おまえも実感としては分かるだろう。

だからおまえの役目はそれを噛み砕いて殿下に御教授差し上げるということだろう。必要に応じておまえの知りうることを丁寧に教えて差し上げなさい。

もっとも殿下はそのような救済措置が必要な愚か者ではない気もするのだがね、何しろ世継ぎの王子には学ばねばならんことが山積で、専門書をゆっくり読むような御時間はないのだろう。おまえが勉強ができるという話がまことしやかに王宮に流れたらしい。殿下は名指しでおまえを御指名下されたそうだよ。

よって、実質的にはおまえは当面、内務卿配下の政務官よりはフレデリック王子の特別補佐官を優先するということになるだろう。

おまえの教師であった連中の推薦状もそろい、後日おまえの学力を試験する場が設けられるそうだ。ざっと見たところ、まあ名門男子であればクリアできて当然の試験内容だった。私が見てもおまえは賢い子供だからな、欠格となることはないだろうが、行って来なさい」

「はい。政務官に、フレデリック王子の補佐官ですか……」


僕は意外な展開に顔をあげた。


「内務卿直下の政務官は、これは紛れもないエリート職だ。州領爵以上の子弟しか就けない暗黙の慣例がある。しかもおまえのような若い者が就くことはかなりの異例だ。だから、おまえの人生の幕開けとしては悪くはない。

さて、頭のいいおまえに今更説明をする必要はないとは思うが、王宮においてはおまえは周辺に持ち上げて貰える主家の子供ではない。これまでとは立場が違うということは肝に銘じなさい」

「はい」

「繰り返す。アディンセル家のアレックスを、殿下直々に御指名下されたそうだ。

次期国王に名を憶えられていたことは、私としてもおまえを誇りに思うぞ。アレックス、この栄誉に報いるため、おまえは誠心誠意王子殿下に忠誠を尽くせ」

「はっ」


僕は姿勢を正して兄さんに敬礼した。

それを見て、兄さんは少し笑った。


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