第181話 名も無き悲恋だとしても(3)
それからも幾つか昔話をした。コンチータの話してくれる昔話は、純粋に懐かしく、少し面白かった。
例えば幼い頃、僕らはお姫様のアレックスとみすぼらしい侍女のタティだったと、コンチータは可笑しそうに教えてくれた。従者が主人より地味でなければならないのは勿論だが、タティは幼い頃から度の強い眼鏡をかけなくてはいけなかった上に、本人があの通りあまり身なりに構わない性格だったし、一方僕は当時白くて細い、金髪碧眼の美少女っぽかったためだ。男らしい今となっては考えられないが、幼いときは傍から見ると、僕はアレクシスに結構似ていたのかもしれない。
だから僕は来客なんかに姫君に間違われて、よく声をかけられていたそうだ。そしてそのたびに兄さんが過剰にピリピリしていたなんて話を聞いたときには、傍から見れば微笑ましい場面でも、今から思うと彼のトラウマを刺激しまくることだったのかもしれないと思うのだが。
滞りなく報告は終わり、帰途につく時刻となった。
タティは徐々に衰弱をしている。穏やかな今の季節はいいが、じきに訪れる夏や、寒い冬を乗り切れるかどうかは分からないという話をするときは心苦しかった。
コンチータは終始怒り出すこともなければ僕を責めることもなく、乳母が子供に接するような態度が崩れることはなかった。目もとに悲しみを湛えながら、静かに我が子の不幸を受け入れていたのだ。
こんなはずではなかったとコンチータに言うのは、彼女への気遣いではなく僕の気持ちを軽くしたいがためのことだろう。
だけど言わずにはいられなかった。日が傾きかけた帰り際、シエラが他所を見ている隙に、僕はコンチータに近寄った。そして深く頭を下げた。コンチータは驚いて僕の腕に触れ、僕の顔を上げさせようとしたが、僕は顔を上げることなんてできなかった。
「アレックス様、いけません、ああどうか。どうかわたしのような者に頭を下げるなどおやめください。アディンセル家の方が頭を下げられるなど、もったいのうございます、どうか」
「許してくださいコンチータ。タティがこんなことになってしまったのは、全部僕のせいです……!」
「そんなことはありません、そんなことはありませんよ」
「だから本当はどんなことをしてでもタティを助けたいって言いたいけど、方法がないんだ……、調べてみてもどうにもならなくて、日々弱っていっているタティをどうしても助けてあげられない……! 彼女を病気にしたのも、殺すのもこの僕です!」
「タティが病を患ってしまったことが、どうしてアレックス様のせいになるのでしょう。誰もそんなことを思ってなどいないのよ。タティは運が悪かった。
それにね、すぐに熱を出したり、病気がちとまではいかなかったけれど、タティは最初からそれほど強い子でもなかったんです。ですから貴方が責任を感じる必要などないわ」
「コンチータ、それは違う……、違うんだ。そうじゃないんだよ。この話には重大な裏があって、責任は全部僕にあるんだ。僕がタティに……」
「それを言うなら、すべてのことは母親であるわたしの責任です」
ふと、コンチータが切実な声色で言った。
その涙の混じる声に戸惑い、僕が恐る恐る彼女を見ると、コンチータは思っていたよりずっと悲痛な眼差しをしていた。彼女はその瑠璃色の瞳で僕をみつめ、悲しく繰り返した。
「……すべてのことは、タティを……、こうして貴方様にご心配をおかけせずに済むような、頑丈な身体に生んであげられなかったわたしの責任なのです」
「コンチータ……」
「アレックス様、実を言いますとね、わたしはタティを妊娠しているとき、体調を崩してしまったの。そのせいで流産をしかけて、結局流れはしなかったもののあの子は随分早産になってしまったのです。
親類縁者からはそれは責められましたわ。子供に何かあれば弁解の余地なくすべて母親の責任にされてしまうのが世の常ですが、わたしはそれだけのことをあの子にしてしまったのですもの。顕著なのが、タティの視力のことです。
父親に似たにしても、あの子の視力がずっと落ちてしまったことは、まずそのせいだろうとお医者様もおっしゃったわ。眼鏡でどうにか矯正することはできましたが、それでもタティにはきっとわたしたちのように鮮明には世界が見えていないのです。若いうちはまだそれでやっていかれるでしょうが、年を取ったらどのようなことになるかと……。
だから、すべての責任はわたしにあるのです。タティが物がよく見えなくて不自由していることも、あの子があまり生命の強い子ではないことも。母親のわたしが十月十日を持ち堪えることができなかったからなのです。
もしわたしが、あのときせめてもうひと月長くあの子をお腹の中にとどめておいてやれたら、視力だって、きっと肺病に罹ることだってなかったでしょう。だから少しもアレックス様のせいなどではないのですよ。
ですからどうぞお顔を上げてください、お願いですから。そんなことをなさらないで」
「コンチータ、それでも……、やっぱり僕のせいなんだよ。僕が……。
でも僕はタティを弄ぼうと思ったんじゃないんだ、兄さんが何と言っても僕はタティと結婚するつもりだった。
決して貴方の大切なお嬢さんを慰み者にするつもりはなかった……!」
「ええ、分かっています」
「僕はタティを……」
「……分かっていますわ」
「アレックス様……!?」
やがて間もなくシエラに気づかれてその場は少し混乱した。
「アレックス様、そんな、嫌だわ。どうして……」
テーブルについている僕の目の前に、湯気を上げたカップが置かれた。子供の頃のように、ホットミルクを出されたのだ。僕は結局コンチータに慰められて、落ち着きを取り戻した。
その間、シエラはずっと僕の服の端を握っていた。シエラがあまりおおっぴらに不愉快だということを表現しないおとなしい性格でも、彼女が内心で面白くないことは分かっている。どの辺が面白くないかは分からないが、表情からして、たぶん全体的に面白くないだろう。
「ごめんなさい」
僕は目の前の椅子に腰かけたコンチータに言った。
「何故、そんなに謝られてばかりなのです」
コンチータは母親の顔で優しく微笑した。
僕はかぶりを振った。
「僕を恨まないの。恨むでしょう。いや、恨んでくれていいんだ……、僕だって自分が憎い。
僕は昔から人より一段上に立って、他人の醜態を軽蔑半分に見ているところのある嫌な子供だった。ところが気がつくと自分が誰よりも馬鹿ばかりやって、我ながらやることなすこと酷いものだよ。
もし時間を巻き戻せるなら、僕が生まれたときから全部やり直したい……、どっちかって言うと、もっと前から……」
「恨みませんわ」
コンチータは静かに答えた。
「だけど恨んで欲しいんだ。僕がタティの親ならそうする。いや、ふざけた男はこの手で殺しに行く」
「アレックス様……」
コンチータは僕の横にいるシエラを気にしている様子だった。僕はそれに気がつき、それ以上言うのを自重した。
「アレックス様……、わたしは貴方をお恨み申し上げたりはしません。貴方は何か勘違いをされているようだけれど、わたしがそんなことを思うはずがあるでしょうか。だって、タティは幸せだったはずです。
愛する貴方と時間を過ごすことが出来たのです。生涯寄り添うことだけが愛情のすべてではありません……、ですからどうぞあの子のことはお気に病まれませぬよう。
人間には、生まれたときから各々神様に与えられた役割というものがあるのです。タティは、アレックス様の幼なじみとして育つことが役割だったのであって、貴方様の妻になる役割ではなかったというだけのこと……。
それに時間の長さなんて、あの子にとってはきっと大した問題ではなかったはず。ひと時でも恋が叶ったあの子の幸せな気持ちが、わたしには手に取るように分かります。
アレックス様、女とは一度心から深く愛した人のことを二度と忘れることはありません。そしてその幸福な記憶があれば、残りの人生を生きていくことができるのです」




