第179話 名も無き悲恋だとしても(1)
別の日、僕はタティの母親であるコンチータのところに挨拶に行った。
僕はこれから王都に赴任することになることを報告しに、それにタティの病状についても……、娘のタティが僕の慰み者にされた挙句に死んでしまうとあっては、コンチータがどんな気分でいるだろうかと思うと、足取りは重くなった。母親のいない僕を大切に育ててやった恩を、仇で返されたと恨んでいるに違いない。
当然、僕は頭を下げるつもりでいた。この期に及んでは、もはやタティと結婚するなど可能性さえ模索できうることではなかった。だからせめてタティを健康に戻して実家に帰してやりたかったが、それも叶わず……、彼女が家族のもとへ戻って来るときには、遺体が焼かれた後のことになる。
ノーマン家は爵位のない貴族としては暮らしぶりのいい家庭だった。地方都市の緑に囲まれた屋敷に住み、使用人を使って暮らしている。コンチータが僕の乳母に、そしてタティが僕の乳姉妹になったことで、ノーマン家の序列が上がったこともあるだろう。
タティの実家にシエラを連れて行くのは気が引けたが、シエラは自分は僕の魔術師だからと言って引き下がらなかった。
「それに、私もご挨拶をしておきたいの」
シエラは大きな瞳を僕に向けて、主張した。
「アレックス様を育ててくださった方にお礼を申し上げたいの。そしてこれからは、私がアレックス様を傍で支えるということも、彼女にお伝えしたい。
そしてできれば、私のことをコンチータさんにも認めて頂きたいの……、祝福して欲しいとは、言えないけれど、私の気持ちを分かって貰いたくて」
「うん、そうか……」
この外出日、ハリエットが僕のところに来なかったことは幸いだっただろう。シエラとハリエットが鉢合ったときの混乱っぷりは、僕には対処ができない。ハリエットは男に生まれていたら、きっと威勢のいい若い騎士だったのではないかと思う。彼女の血の気の多さと物怖じのない積極性は、僕が羨むべき特質だ。
屋敷の門をくぐると、僕はノーマン家の総出で出迎えられた。タティの父親は出仕しているので留守なのだが、数十名もの人々と、この屋敷の女主人であるコンチータが僕を歓迎した。
「ああ、アレックス様! お懐かしゅうございます」
コンチータは長い黒髪を結わえ、四十代の女性としては地味な、相変わらずほとんど老婆の着るような服装をしていた。とはいえ僕の乳母をしていた頃に比べると、当然ながら年齢を重ねたことを覆い隠すことはできない。目尻にはしわが、髪には白いものが混じっている。だがまだ美しさ自体が損なわれたわけではなく、ずっと前に兄さんが言っていた通り、彼女は美人の部類に入る女性だった。人のよさそうなところは、タティに似ていた。コンチータは眼鏡をしていないので、顔立ちがいいことがはっきり分かった。タティと同じ瑠璃色の瞳をしている。
兄さんは以前、タティの視力について難癖をつけていたことがあったが、母親が眼鏡をしていないならそれほど重篤な遺伝的問題ということにはならないじゃないかと、今頃反論を思いついて苦笑した。
コンチータは僕の腕にくっついているシエラを見て、少し瞬きをしてから、シエラのことも笑顔で歓迎した。彼女が何者かということを、当然ながら知っているのだろうが、コンチータはその笑顔を崩すことはなかった。
そのまま屋敷内の廊下を案内された。先導するコンチータと僕らの周りを、遠巻きに人だかりができていたが、領主の弟を見たかったのか、それともシエラの美しさがめあてだったのかはよく分からない。
コンチータは歩きながらしきりにタティの兄の話をしていた。シエラに気を遣って、タティの話題を出さないようにしてくれていたのだろう。タティに兄弟がいるなんて、あんまり考えてみたことがなかったが、言われてみれば別に不思議なことはない。
「彼は眼鏡を?」
「いえ、していないのですよ。眼鏡は……、わたしの夫がしていますわ」
「タティはお父さんに似たんだね」
「ええ、そう、そうですわ。娘は父親に似ると言いますものね。あまり一緒に過ごさせたことはないのですが、言われてみればあの子は……、父親によく似ています」
「そうか、タティはずっと僕のところにいたから家族と住んでいないのか……」
「あの子はアレックス様の乳姉妹。貴方様の家族にさせて頂いておりましたもの。楽しく暮らせていましたわ。アレックス様とタティは気もあって、……仲のいい姉弟でした」
「うん……」
ここはタティの実家だが、タティは生まれてすぐ僕のところに奉公に出たため、ここで生活したことはなかったのだ。たまに帰省することはあったが、人生のほとんどの時間を僕の側で過ごしていた……。余程貧しいとか、何か特別の事情がなければ、貴族の娘は大抵、生まれた城や屋敷の中が世界のすべてだ。いつか花嫁になって誰かに連れ出して貰うその日まで、彼女たちは夢のまどろみのような少女時代を過ごす。教育も家庭教師が主流だ。だから世間知らずさは、男の僕の場合は洒落にならないが、彼女たちに限っては育ちのよさの証明ともなる。
タティは僕の乳姉妹として、僕の部屋で一緒に育った。寝室は早い時期から別だったが、幼い頃は寝食を共にし、勉強もある時点までは一緒にしていた。遊ぶのは勿論そう。
タティは母親以外の家族と暮らしたことがなく、サンメープル城内の僕の部屋の中が人生のすべてだった。タティにとって僕が世界だったと主張していたハリエットの言葉が、地味に突き刺さる。
「小さな可愛いお屋敷ね」
シエラが僕の服の袖を掴んだまま、窓の外を見て言った。
「ホリーホック城はとても広くて、ときどき迷子になりそうだったわ。お城の中に市街があるの」




