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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
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第176話 夕暮れロマンティシズム(1)

雨が上がった後陽が差し、それから夜の帳が降り始める時刻となった。

四月の日の長さは、まるで真冬の頃とは別の国にでも滞在しているかのような錯覚を覚えた。

元ウィシャート公爵家の領地は広く、全州合わせると軽くそれなりの体裁を保つ一国に相当する面積を誇っている。トバイアの発言力、また、彼の力だけで旧バルフォア王国の反乱を捻じ伏せることができていたのは、そこいらの小国以上の税収、人的資源、軍事力をあの公爵は持っていたからだ。

その何処かにある別荘となると、僕が無断で入り込んでアレクシスを探しに行くには、随分時間を要しそうだ。ハリエットを足に使うとして、何ヶ月かかるか分からない。僕は来月から王都で陛下に仕える身なのにそんな時間の猶予はない。そして兄さんの許可がなければルイーズも使えない。

兄さんは今夜は女と過ごすため、僕とは夕食を取らないそうだ。ウィシャート公爵夫人が夫の愛人を生かしておくお人好しとも思えず、アレクシスが無事でいるとは僕だって思っていない。だけどそれをきちんと確かめるということをしないまま、別の女と逢瀬をする神経が僕にはどうしても分からない。

たとえアレクシスの誕生石を憶えていたとして、結局彼は人でなしだ。そう思っていたのに、ふとみかけたその晩のデート相手と思しき女の後ろ姿が、可憐な美しい金色の髪をしているのを見て、僕は何となく理解できた気がした。

今の僕にはもう、この不誠実だが孤独で哀しい男の人生を責めることはできない。

彼はきっと今夜もアレクシスと出逢うのだ。彼女に似たような女に贅沢をさせて、微笑みかけ、愛を囁く。大人びていたとはいえ、さすがに子供だった当時の彼にはしてやれなかった極上のエスコートを、彼は罪の清算のように想像のアレクシスに与え続ける。清楚で従順なアレクシス。中にはその振りをしているだけの女もあるだろうが、そこは兄さんとしても織り込み済みだろう。

アレクシスとは合理主義者の彼の中に混在するロマンティシズムだ。彼はこうしてアレクシスと何度も何度も出逢いを繰り返す。虚しい行いだと自分でも分かっているだろうし、その無意味さに気がついて自嘲する朝もあるだろう。

それでも、世の女たちを惑わせるアディンセル伯爵が、実は金色の髪のアレクシスの幻影に惑わされ続けているのだ。

皮肉にも彼の人生は今でもアレクシスに支配され、たったひとりの愛する女を求め続けるさすらいの人生でもある。美しく優雅な伯爵。もし歯車が狂わなかったら、今頃はこの城内に彼の求め続ける人生が存在していたのだろうか。

ルイーズによって見せられたあの過去の不運な出来事が、もしうまい具合に何ひとつ起こらなかったなら、今頃はどうだっただろう。父上の年齢は仕方がない、兄さんはいずれにしても若い頃から重責を背負うことにはなっただろうが、それでももし、いつでも彼の傍にアレクシスが微笑んでいてくれたとしたら。何事もなく、伯爵妃となった彼女が傍で兄さんを支えてくれていたとしたら。

何となく、今の兄さんからは想像もつかないような誠実な男がいるような気も、しないでもなかったのだ。生涯アレクシスひとりでいいなんてことを、きっぱり騎士仲間たちに公言してしまうような恥ずかしい男が、今夜も愛する妻と二人きりのディナーを楽しんでいたかもしれない。

お母さんがいるというのは、いったいどんな感じなのだろう……。もしアレクシスが今ここにいたとしたら、ルイーズみたいなのが僕のお母さんということになるのだ。性格はだいぶ違うと思うが、まだとても若いから、僕はドキドキしてしまうかもしれない。

そしてうっかり二人きりのディナーに近づいて、僕は兄さんに威嚇されるのだ。そんな有り触れた日常の様子が、僕には想像することができた。


「いいかアレックス」


テーブルに近づいた僕を追い払うべく、兄さんが怒り出す。


「おまえが子供のうちは、仕方がないからアレクシスをおまえに貸してやっただけなのだ。だがもうそうじゃない。二十歳にもなってまだ甘えようとはいい度胸だ。受けて立つぞ」


僕は当然抗議する。


「何だよ、そうやって何でもかんでも勝負しようとするなよ。僕の母上だぞ」

「その前に私の妻だ。おまえはおまけだ」

「違うよ」

「煩いぞ。おまえも男ならたまには外食のひとつもして来い。夫婦の時間を邪魔するな」

「けちだな。僕もまぜればいいのに。僕もお腹がすいたんだ。僕が可愛くないのか?」

「アレクシスの次に可愛いぞ。だがデートが優先だ。向こうへ行っていなさい」


痺れを切らした兄さんが、僕を追い払うべく手を振る。僕は兄さんの態度に腹を立て、アレクシスの席へ行って……、その辺りは上手く想像できなかった。お母さんなんて、いったいどういう反応をくれるものなのか、僕には分からないからだ。アレクシスのこともよく知らない。ルイーズの記憶の中ではとても内気な様子だったが、僕にどんな言葉をくれるのか、想像することはできなかった。

だからそこは思い切って飛ばす。僕はアレクシスのお皿から果物か何かを貰って、兄さんに勝ち誇ってみせるのだ。挑発に乗って、兄さんは追いかけて来るかもしれない。それを見てアレクシスは笑っているだろう。

家族が誰も欠けていない、至って平和な日常。

そんなふうに、きっと他愛ない毎日、だが今よりもう少しだけ幸福な毎日が、続いていたに違いない。

すべてはもはやどうしようもない、取り返しようもない未来ではあったが、そういうことを……、もしかしたら兄さんも夢見ているのかもしれない。ひととき泡沫のごとき甘い夢を、アレクシスに似た女の向こう側を眺めながら。どんなに大変でも、アレクシスが傍にいてさえくれたら彼女と築いていけるはずだった幸福な未来を。

もっとも、いつも誰か別の女の身代わりにされている女の哀れさを、まったく考慮しないのは兄さんらしいと言えばらしいのだが。

僕は息を吐いて頬杖をついた。

カイトが留守なので、僕には他に遊ぶ相手もいないし、夕暮れ時に自分の執務机についたままぼんやり過ごしていた。

今はシエラと二人で夕食を過ごしたい気分じゃない。それに今日は随分一緒にいたので、解放されたいという気持ちが強かった。

彼女は可愛いし、純粋で、優しくて、しかも美人だ。そんな娘が無邪気に僕に甘えてくれるのは嬉しいけれども、僕は上手く安らぎを感じることができない。だから何か口実を作って夕食の時間を避けようと思うのだが、上手い言い訳が思い浮かばない。

婚約者としては完全に失格だが、それでも構わないのだ。僕はそうでありたかった。シエラに好かれないようにするための努力なら、その逆よりも僕はきっと喜んで取り組むだろう。

徐々に暗くなって行くオレンジ色の窓の外に目をやりながら、少しのあいだ感傷に耽った。

若い僕は、思い出して胸が痛くなるような歳月の経過など味わったこともないのだが、大人たちがしばしば瞳に覗かせるそうした切ない情景を、僕も既に胸の奥に持っているかのように、静かに暮れなずむ春の景色を眺めていた。

僕はまだ、誰にも何処にも行かないで欲しいと思うのに、人生は変化していく。

僕の人生に登場する人々のうち、これから先もずっと変わらずに僕と係わってくれる人が、いったいどれだけ存在しているだろう。

僕には最初から両親がいなかった。祖父母もなく、家族は兄さんだけだ。兄さんだって世間で言えばまだ若い。三十代前半の彼には、さすがに老いの兆候は見られない。家族が年老いていく悲しみを、僕は味わったことがなかった。でもいつか兄さんが年を取ったら、それとも年を取ってしまう前に、何かの事情で死んでしまうことがあったら。

僕はいったい誰を頼って生きていったらいいのだろう。兄さんが引き受けているすべての責任を、果たして僕に引き受けることができるだろうか?

ルイーズは以前、僕のことを兄さんのスペアだと言った。それは何も、長兄がより重要で価値があるという意味だけではなかったのかもしれない。

いざというとき、僕はいつでも兄さんの代わりができるようになっていなければならなかったのだ。二十歳の男なら、全部は無理でも、もう彼の補佐くらいはできていてもおかしくはない年だったのに、僕はまるで姫君のように無責任で、無条件に保護され、兄さんに頼りきった暮らしをしていた。

自立しようなんて思ってもみなかった。自立できていると思い込んでいたからだ。世の中のことをだいたいは分かっているつもりになっていた。そして周りの人間は誰もが僕より頭が悪いと思っていた。

しばらく何となくそうしていると、ノックがして、既に人のいない室内に誰かがやって来た。クライドだった。

彼は人懐っこく笑って、もしお暇でしたらと前置きした上で、僕を夕食に誘った。


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