第174話 君のいない人生(2)
そもそもこの結婚とは、国境ランベリー州に住まう貴族や民衆が支持しているであろうウィスラーナ家のシエラをアディンセル家に迎えることで、新領統治にとって利益があるかもしれないという打算によるものだ。
とは言えシエラが当主の妻として迎えられないという時点で、アディンセル家における彼女の扱いが軽いということに、少し頭のまわる者なら気づいてしまうだろう。シエラは言わばいれば政略の足しになる程度だった。
ろくに侍従や魔術師も連れずにアディンセル家に放り込まれた時点で、そして僕の秘書官なんてさせられていた時点で、ロベルト候の人望のなさ、そして彼女が大した政治的影響力を持たない姫であることはよく分かる。
オーウェル公子の持論ではないが、要はシエラは兄さんに子産みを期待されたということなのだ。我が兄ながらやることがいちいち冷酷でそろそろ感想も出ないほどだが、彼女は明確に血筋と美貌だけを買われた姫なのだ。兄さんがその点を評価しなかったら、ロベルト候失脚の時点で、今頃はシエラはもう少し扱いが悲惨になっていたかもしれない。
それを思えばシエラが僕に懐いているのは、そうした我が身の危さを、彼女としても薄々感じ取っているのかもしれないなどと思うのは穿った見方だろうか。
この国では父親や夫、せめて男兄弟がいない姫君が落ちぶれるために労力はかからない。
でもシエラの無邪気な微笑みを見ると、すぐにやっぱりそんな暗い計算はないようにも思えた。
今日の彼女は裾に刺繍のある可愛い空色のチュニック姿だった。もしそうなら、それでも全然構わない気持ちでよく青い服を着るのはフレデリック王子のファンなのかなんて聞いてみると、シエラはにっこり笑ってこう言った。
「ええ、フレデリック様の格好を真似るのは、ちょっとお洒落な人たちの間で流行していることだから」
「そうなの?」
シエラはしたり顔で頷いた。
「だって、ローズウッド王家の方は本当に見目麗しいでしょう。フェリア様のときは、国中の女の子が彼女のスタイルを真似たのよ。王女様に嫉妬する、一部の高い位の方たち以外はね。
フレデリック様は王子様だけど、やっぱりそういう意味で人気があるみたいです。彼は気位の高い公女様方にも、割と好かれているみたい。
それにフレデリック様は、ある種の男の人にももてるんですって」
「ある種の男の人? あ、ああ、なるほど……、それは殿下も大変……」
「それに勇気を貰いたくて」
「勇気?」
シエラは頷いた。
「フレデリック様は、絶対弱音を吐かない強い人だから。
私、お兄様が陛下に蟄居を命じられて、アディンセル家に行かなくてはいけなくなったとき、どうしていいか分からない気持ちだったの。本当に……、泣きたい気持ちで……、貴方がいるって知らなかったときのことよ。
だから……、フレデリック様みたいになれたらいいと思ったの。だって彼は強くて、凛々しいでしょう。だからあんなふうに私もできたらって……」
それから少しフレデリック王子の話題になった。シエラがどうも殿下と面識があるらしいということは、何となく察していることだったのだが、憧れの王子様との交流の自慢でも飛び出すかと思いきや、意外にもシエラの返事は芳しくなかった。
「いいえ、全然親しいわけじゃないわ」
シエラは少し眉を寄せ、殿下と親しいのかという何気ない質問に対するものとしては、随分頑なな反応をした。
「以前に、ちょっとお会いしたことがあるだけ」
「ロベルト様が怒られたって、前に言っていたね」
「それは……、ほんの一度だけです。
フレデリック様は、お兄様のことを思って叱ってくださった……、でも彼はいつだって完璧な優等生だからなのよ」
「ふうん、やっぱりフレデリック様って優等生なのか。そんな雰囲気はあったけど」
「彼は教科書みたいに完璧なの。嫌味みたいに」
シエラは呟き、それからそれをすぐに自分で否定した。
「……いいえ、完全無欠、……でありたい人なの。
でもそれでも彼は完璧よ。理想が高すぎるのよ。フレデリック様はどんなことでも人よりよくお出来になるの。いつだって、国王陛下が望む通りの、強くて完璧な王子様だわ。
それなのに思い上がりなんて全然ないし、私、彼のことが大好きだった……」
「人格者?」
「ええ、そうです。フレデリック様は絵に描いたような、お手本みたいな人格者。
彼は私より年下だけど、本当にしっかりしているの。私のことも、誰のことも、全員纏めて頼って来いって、そういう御性格の方です。
私、彼を見ていると自分がとても恥ずかしくなるわ。
彼は出来がよすぎて、理解者ができないのかもしれない。いつも強くて、何でも自分で抱え込むからよ。そして私は彼を理解してあげられなかったの。
彼が気持ちの弱い、すぐに挫けてしまう弱くて優しい人間のことを、理解できなかったように……」
「彼と何か、あったの?」
シエラの表情や顔色が、いつもと比べるとまったくおかしかったので、僕はたずねた。
「いいえ。何もないわ、何も……」
するとシエラは今度は突然明るい声を出した。
「フレデリック様はね、いつも私を年下みたいに扱おうとするの。まるで私の保護者みたいに。おかしいの。まだ私より背が低いときからそうよ。それによく気取るのよ。仕草とか」
「ああ、そう言われてみれば去年の夜会でも、気取っている感じはあったような気がするな。
でもそれってたぶん、殿下は背伸びしたいんじゃないかな。僕にも昔、そういう時期はあったものだよ。自分は大人だって何とかして主張したくてさ。彼はまだ若いんだね。それとももしかして君に」
「ねえ、もうこの話題は嫌だわ。フレデリック様のことなんて」
不意にシエラが言った。
「ああ、うん……」
「もっと違う話をしましょう。私たちの将来のこととか」




