第172話 大人になるということ
トバイアが死んだんだから、アレクシスを助けに行ってはどうか。
僕は兄さんと顔をあわせるとき、何度かこの言葉が喉まで出かかったが、どう考えても兄さんが僕に秘密にしようとしているアレクシスのことを、いきなり僕に言われるのには戸惑うだろう。
誰に聞いたと怒り出す可能性も高い。アレクシスが単に誰かの愛人になっているとしたって、誇り高い兄さんが自分以外の誰かに女を横取りされたなんて、かなり面白くないことだろうに、実際は……口に出すのも憚られるほど酷いことになってる。
ルイーズだって、あの夜僕が無茶なことをしようとしなかったら、このことはやっぱり一生口には出さなかったことだろう。アレクシスの名誉に係ることだ。
それでも、ここはやっぱり言うべきじゃないかとも思ったのだ。ウィシャート公爵家の領地だった場所は、現在無断で入り込みやすいことになっているだろうし、何処かの別荘に閉じ込められているであろう愛人が何人いるのやら知らないが、虱潰しに当たってみるくらいのことをしてもいいはずだ。
だから春風の流れ込む兄さんの執務室前の廊下を、逡巡と歩きまわったりしたが、会いたくもないときに限って後ろから追いかけて来るくせに、こういうときに限ってなかなか兄さんと出くわさなかった。それと言うのも彼が新たに拠点とすることになったウィスラーナ家の国境要塞ホリーホックに行っているからなのだったが。
兄さんはとても忙しいのだ。新たに増える役目や厄介事に、忙殺されているのだ。
それなのに僕があんまり用事に使われないのは、兄さんが留守にしているときに居城の責任者になるのは僕だからだ。僕は今だって兄さんの執務室に常駐して、当主の執政代行をしているのだ。という側面もあるが、現実には僕に臨機の対応を求められる役目や前線を任せるのには、不安があるということもありそうだ。
ウィスラーナ家に仕えていた者たちの中には、アディンセル伯がロベルト卿を陥れたと恨みを持っているのもいるのだろうし、表向きの仕事以外にもやるべきことは山積だ。現に兄さんがジャスティンを含む十数名の騎士たちに、誰々の一族郎党に言いがかりをつけて罪科を課せとか、逃亡した誰それを指名手配しろとか、物騒なことを指示しているのも聞いた。
そういうのは、恐らくウィスラーナ家に特に忠誠の高かった者たちなのだと思う。言いがかりで罪を着せた後に兄さんが何をするつもりなのか、僕にだってだいたい想像はつくのだが、兄さんはどうも僕がまだそういうのに耐えられないと思っているらしい。それで、どうせ僕はもうじき王都に行くので、その準備でもして引っ込んでいろということになっていた。
兄さんが全然戻って来ないということは、ルイーズもまず城内に見当たらなくて当然で、アレクシスのことを知る当事者が二人ともいないとなると、僕は廊下に座り込むしかないのだった。
執務室前には警備の騎士が詰めているので、僕はそこから少し離れた廊下の壁に背をつけて、静かに息を吐いた。荷物の準備はだいたい終わっている。廊下の隅には春の花々が飾られ、そこここの開け放たれた窓から吹き込む豊かな春風が心地いい。
カイトがいればいろいろ相談ができるのに、友だちが少ないのはこういうときだけはちょっと困ったことだった。
たまにハリエットが僕のところに来ることはあるが、男と握手も拒むようなのに、アレクシスの話なんかできるわけがない。もしハリエットにそんな話を受けとめられる器量があったとしても、友だちじゃないので打ち明けるはずはないのだが。
友だちだとしたって、やっぱりあんなことは言えないだろう。僕はカイトにもあれは話すことはできない。
そう思って、ふと気がつく。兄さんたちがアレクシスの存在を僕に隠しているのも当然だと、改めて問題の難しさにため息が漏れた。
僕はアレクシスが最初からいなかったようなことになっていることには、最初は幾らか疑問を感じてもいたのだ。兄さんの周辺の者たちは、当然ルイーズに姉がいたことを知っているはずなのに、彼女についてはタブーのように語られることがなかった。
だいたいの人の間では、アレクシスがジェシカに処刑されたことになっているのかもしれない。それとも公爵に没収されたところまで内情を知っている者もいるのかもしれないが、どっちにしたって結構重要なことのはずなのに、少なくとも僕の前で話題にされたことは一切ない。
売られた挙句に誰からも存在しなかったことにされているアレクシスが、不憫すぎると思っていた……。
でも僕にアレクシスがいた話をするのは、考えてみればとても大変なことだ。「おまえの母親はアレクシスと言うが、彼女はもう死んでしまった」という作り話で通すことだって、便宜上弟としている僕に話すとなれば子供相手のことだ、いろいろ混乱をきたしたことだろう。僕は間違いなくアレクシスについて知ろうとしただろうし、となればお墓がないと騒ぎ出すのは時間の問題だ。
何よりもし僕が兄さんの立場なら、自分の子供にあんな悲劇なんか死んでも打ち明けないだろう。これは、もはや名誉以前の問題なのだ。
でももし僕なら、忙しいのを縫ってでも、きっと愛する女を助けに行くのに――、なんて、居城内の離宮にいるタティのことすら救えない僕が? 子供じゃあるまいし、綺麗事は大概にするべきだ。
トバイアの愛人なんて、あの汚らわしい公爵が死んだ時点で、抹殺されているのが関の山だ。兄さんはきっとそうご判断されたのだろう。何せ夫人や公子が、そのまま女たちを生かしてはおかないだろう。彼らにしてみれば、アレクシスたちなんていうのは、それまで夫や父親を誘惑し、散々妻子である自分たちを苦しめてきた憎い女どもということになる。
世の中は、勧善懲悪とはいかないものだ。相手が神の敵対者でもない限りは。
そしてこんな立派な考え方ができる自分に、僕は密やかな誇りを感じていた。つまり、男の強さを感じていたのだ。どんな場合でもアレクシスより領主としての仕事や立場を優先する兄さんを正しいと感じ、僕の選択していることもまた、間違いではないのだと確かめた。
兄さんのやることに間違いなんてないのだ。
だから僕は尊敬する彼の模倣をして、一人前の男としての生き方を、少しでも早く身につけていかなくてはならない。
男とは、こうでなくてはならないのだ。
だからアレクシスを優先しろとか、二度も彼女を見捨てる気かとか、あんたは自分の力だけで成功を勝ち取ったつもりなのかとか、女を見殺しにするなんてそもそも人でなしのすることだとか、兄さんに歯向かって、ろくに周りを見渡しもせず感情だけで女々しいことを言うなんて、弱虫のすることだ。
廊下の向こうからジェシカと、引き連れられているフィエールの姿が見えた。
ジェシカは僕に気がつくと、慣れた動作で敬礼をしてから僕に執務室に戻るように言った。ジェシカは滅多に僕に意見はしないが、伯爵様の代理がこんなところで何をのんびりしているのか、という彼女の厳しい意見がその視線から感じ取れた。そして急ぎ足で兄さんの執務室に入って行ってしまった。
急き立てられたフィエールは、すぐにその後を追おうとしたが、ふと、足を止めて僕のところに戻って来た。
頭の寝癖や服のしわには気がつかなくても対応は律義なこの男は、僕に敬礼をし忘れたのを、やり直そうとしたのだろうと思ったのだが、彼は屈み込んで僕に言った。
「大丈夫ですか? 目が死んでいらっしゃいますけど」




