第17話 夢見る頃を過ぎても(2)
タティの声にも目にも、はっきりと涙が帯び始めていた。
パーシーが殺されたということ自体には、僕は特に何の感想も持たなかったというのが本当のところだった。こういうことが起こったとき、悲しみと不条理を感じて騒ぎ立てていた僕の少年時代は、もう少し昔のことだ。今は世の中の仕組みをある程度分かっていて、こんなときにはただ黙って印を切る。他の人たちと同じように。
そもそも柔らかな人当たりを心がけてはいても、本来が気性の激しい兄さんに抗議をするだなんてことは、兄さんの側近連中でさえ憚っているほど恐怖をともなうことであるのは、ここでは周知のはずだった。
僕はときどき兄さんのやり方に文句を言いに行くけど、それは実は、兄さんに目をかけて貰っている身内であるからこそ無事で済んでいることであって、他の人々からすれば考えられない特権的な行いなのだ。
それなのに、それでも敢えて兄さんに挑戦するということは、パーシーの身分からして殺されたって文句が言えないくらいのことなのだが、それにしたって本当に殺してしまうというのは、やりすぎであるとは僕は思う。
タティはパーシーの死を悲しんで、僕の目の前で涙をこぼしていた。眼鏡の隙間から覗く彼女の長い睫毛に涙の粒が宿っていて、それで僕の胸はいっそう締めつけられた。
去来するのは、兄さんというのはまったくなんてことをしてくれたんだという当惑。それに飽くまでパーシーを擁護する姿勢のタティへの不満や悲しみが混ざって、僕は何とも言いようのない気持ちになりつつあった。気がつくと、こんな言葉が僕の口をついていた。
「その……君は僕の乳姉妹なのに、僕の側仕えなのに、他の男と……パーシーなんかと交際するから、兄さんはそれをきっと不純だと思われたんじゃないかな……」
するとタティは弾かれたようにこう答えた。
「交際なんてしてませんっ…!」
「えっ?」
その勢いに負けて瞬きをする僕に、タティはいつものおっとりした彼女らしくなく、声を荒立てて言い募った。
「どうしてですか、誰がそんなことを言ったんですかっ?
料理長さんはただのお友だちです、アレックス様の好き嫌いのことで相談しているうちに、確かに親しくはなったけれど、それだけのことだわ。
それなのに伯爵様もそのことをおっしゃって、とうとう信じてくれなかったわ! どうして? どうしてなのですか!?」
「そ、そうだったのか……、僕はてっきり、君たちが好きあっているものだと思っていたよ……でもタティ、それが違うと言うならよかった。僕は」
「……でも」
そこでタティは不意に、敵意さえ感じられる眼差しで僕を見上げた。
「わたしは好きだったかもしれません……あの人のこと」
その絶望的な一言に、僕はもうなんて言っていいか分からなくなって、黙ってうつむいてしまった。
僕は何だか、頭の中も心の中も収拾がつかなくなって、酷く疲れてしまっていた。
だからこのまま部屋に戻って、少し休みたかったんだけど、悲しみと怒りで気が立っているタティは、それを許してはくれなかった。
「アレックス様、わたし、貴方のお相手をしたらいいんですか?」
投げやりな上に、棘のある言い方でタティは言った。
「そんな、そんなことは……」
「アレックス様はこの間の腹いせに、あの小川でのわたしの態度のことを怒っていらして、それでこんな酷いことを思いつかれたんでしょう?
でも、それならわたしにだけ仕返しをすればいいのに、わたしの家族や、コリンさんまで巻き添えにするなんてあんまり酷いわっ……。
アレックス様、貴方のつまらない勘違いのせいで、コリンさんは殺されてしまったのよ!?
アレックス様はご自分がどれほどの権力をお持ちなのか、まるで分かっていらっしゃらないのよ。貴方の気まぐれな言葉ひとつで、どれだけの人間に理不尽な被害が及ぶか、まるで分かっていらっしゃらないのよ。
さもなければ、アレックス様だけはそんな方じゃないと信じていたけど、やっぱり貴方もあの伯爵様とおんなじなんだわ。
そうして、そうしてわたしを散々弄んだ後に、貴方はしれっとして、知らん顔で、あのエステルさんみたいな金髪美人のお姫様と、幸せな結婚をされるおつもりなんでしょうっ……!?」
目の前のタティは、これまで見たことがないほど取り乱していて、いまや僕に向かって喚き立てていた。
そして彼女と同じくらい混乱している僕もまた、タティが何を言っているのかを、理解することができなくなってしまっていた。
ただ僕に向かってこんな態度を取るタティのことが、パーシーのことを庇うタティのことが、次第に憎らしくて許せない気分になっていた。
「な、何だよっ、どうして人の話も聞かずにそこまで勝手に決めつけるんだ!」
気がつくと僕もまた、タティに負けないくらい声を荒らげていた。
「全部兄さんが勝手に言ってるだけのことじゃないか、そんなことで……。
だいたい、コリンさんって何だよ……!
タティがあの男をコリンさんなんて気安く呼ぶから、兄さんだって二人が交際しているって誤解されたんじゃないのか。
こんなことになったのは、タティが不用意なせいもあるんじゃないのか!?」
僕が腹立ち紛れに胸に引っかかっていたことを口にしてしまうと、タティはとうとう声をあげて泣き出してしまった。
彼女は自分のせいでパーシーが殺されたと言って大泣きをした。すると当然、彼女を泣かせてしまった酷い罪悪感が僕を襲った。
でもどうしてこんなことで自分が罪悪感を覚えなければならないのかが分からなかった僕は、僕の目の前で、パーシーが死んだことを、まるで世界が終わったみたいに悲しんでみせるなんて酷いじゃないかということを、もう少しで更にたたみかけそうになっていた。
「おっ!? アレックス様、誰を泣かしているのかと思ったらタティですか。
おやおや、いったい何があったんですか?
ううむ、暇だし、ここはひとつ、俺にも事情を教えて貰えませんかね?」
そこへ、これは救いと言うべきなのか、いつの間にかカイトが現れ、彼は僕と泣きじゃくるタティの顔をかわるがわる見て茶々を入れ始めていた。
そのおかげで僕は少し理性を取り戻し、近くで窓拭きをしていた召使いの少年も、廊下を通行する使用人たちのいずれも、各々が興味深そうにこちらを見ていることに意識を向けることができた。
冷静になってみると、僕の目の前で泣いているタティは、僕なんかより当然背丈も低く、か弱く、立場も弱く、彼らの目にはどう見たって、僕がタティを一方的に苛めているようにしか見えないのだろう。そして苦しいことに、事実もだいたいは、その通りだった。
僕は心に湧き上がってくるすべての煩雑な感情をこの際自重し、タティに言いたかった不満すべてを胃の中に無理やり押し込んで、ただ深く、深く息を吐いた。