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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
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第155話 祈念

居城の敷地内の霊園に、祈りの一群が訪れる光景があった。

雪解けの頃が母上の命日なのだ。

でも僕は僕の母上のことをほとんど知らなかった。

母上を思うとき、僕がまず抱く感情は疎外感だ。前から彼女は兄さんばかりを愛しているのではないか、僕のことなんてどうでもいいのではないかという気持ちで母上を思っていたが、でもそれはもっともだった。

母上は僕を生んだわけではなかったし、たぶん僕の存在も知らされていなかったのだろう。

たった一人の、彼女がこの世に生きた証のような幼い息子が、乳姉妹に手をつけて子供を生ませたなんて話を、死の床にある母上に伝えたとは到底思えない。

だから僕という存在は、母上の世界には最後まで存在しない子供だった。

僕は別に悲しいわけじゃない。

僕は母上のことを知らないからだ。


「手を……」


ふと、シエラが僕を見上げて言った。


「手を繋ぎましょう。私がずっと繋いでいてあげる……」


シエラが僕を気遣ってくれているのが、よく伝わって来た。彼女は育ちがいいだけでなく、多くの人々に称賛される美人というだけでなく、とても気持ちの優しい娘だった。


「大丈夫だよ」


僕は言った。


「でも、とてもつらそうにしていらっしゃるわ」


シエラは少し僕の気持ちを見抜いていた。

祈りの一群にはカイトの姿もあったので、僕はそうするのを躊躇った。

でもカイトは目敏くそれに気づいたのか、軽く右手を上げてみせた。応じたらと、言っているのが分かった。

左手を差し出して、シエラと手を繋いだ。細くて頼りない手をしていた。


「私も寂しかったの」


シエラは囁いた。


「いつも寂しかった……」


母上は兄さんが十三歳になる直前に亡くなられた。しかし便宜上、僕を産み落とすには間に合ったわけだ。彼女は後世に大きな功績を残したことになっていた。家系に取りついた奇怪な呪いのために、アディンセル家は下手をすると兄弟ができない代もあるようだ。もっとも家系図を見ると異母兄弟という手段を取っていることもあるが、それは十数年後には骨肉の家督争いに発展してしまう可能性を含んでいて、実際そのようなことが過去には起こっていたようだ。

また妻の身分がずっと高かったりすると、そういうことは難しくなる。妻の父親が黙っていないからだ。異母兄弟とはとかく揉め事を引き起こしやすいのだ。そんな中、お一人で男子を二人ももうけられたことになっている彼女は讃えられ、実家のマイヤーズ家はその功績により新たな土地を与えられた。僕が母上の実子であることを、内外に証明するためのデモンストレーション的な意味もある褒賞だったのだろう。

兄さんは、母上の亡くなられた春先には毎年神妙な顔をして、大勢部下を引き連れて、サンメープル城内の霊園へと足を運ぶ。彼が母上の短い人生に何を思っているのか、僕には計り知れない。

父上が後妻を取ることを渋ってばかりいたのには、何も妻たちが目の前で次々死んでしまうことを怖がっていただけではなかったという。父上は最初のお妃様だけを生涯愛していたのだと、家令がぽつりと漏らしたことがあった。父上の頃に家令をしていた自分の父親に聞いた話だと言って。彼女の誕生日には、今でも墓前に赤い薔薇が捧げられる。父上の遺言のひとつなのだ。そして兄さんは、それをお許しになっているのだと言った。

幾つもの哀しい人生の交錯を感じていた。悲しく寂しかったのは僕だけではなかった。

泣かないからといって兄さんが悲しくないなんて、傷ついていないなんて、どうしてそんな残酷な決めつけができていたのか……。

こんなときだけ駆り出される司祭を先頭に、礼服に身を包み、厳かな行列が静かな祈りのひと時を過ごす。居城のはずれにある雪に覆われていた霊園は、伯爵の訪問のために予め綺麗に整えられて磨かれていた。

今はひとときの静寂が僕たちの人生を満たしていた。

祈りの時間が終わると、ルイーズがさっそく、スカートのスリットが深すぎるとジェシカに叱られているのが笑えた。ルイーズは笑顔でそれを誤魔化し、兄さんの背中に隠れる。ジェシカは態度が不真面目だと言って、もっと憤慨する。じゃれているのだ。彼女たちは昔から、そういう関係なのだろう。そして兄さんはそれを静かに見ている。

ルイーズは素晴らしいムードメーカーだった。あの三人はあれからずっとチームを組んでやって来たに違いないが、陰鬱できつい局面にあってもあのように明るい笑顔を振りまく性格の人間が一人いると、それだけでその場がとても救われるものだ。

ジェシカは大雑把な兄さんの細かいフォローをするのに欠かせなかったことだろう。兄さんにもルイーズにも、常に常識を押さえた観点からの意見を口にできる人間が必要なのだ。彼女は僕へのフォローにとっても不可欠だった。

兄さんがどちらにも手を出さなかったのは、せめて幼年期からあるこの親しくも距離感のある特別な関係を、壊したくなかったからなのだろうか。

彼にとって彼女たちとは、家族だったのかもしれない……。

それは春めいてはいるが、まだ少し肌寒い日だった。重たい曇天から陽光が差し込み、その光は祝福の兆しのように輝き、美しい光を世界に投げかけていたが、足下の煉瓦道には泥の混じった汚れた雪が残っていた。

吐く息は白く、僕は異国の詩の一節を呟く。憧れの美しい詩人の言葉だ。外国の言葉で書かれた詩なので、僕はその短い言葉に込められた正確な意味を把握している自信はなかったが、ちょうどこんな風景のことを哀しく謳った詩の一節だった。

もしタティが天国に召される日が来るときは、こんなふうに悲しくも荘厳な光の中なのではないかと思い、ふと胸の中に悲しみと諦観がよぎる。

感傷的な午後だ。鳥の囀りが何処か遠い。

いつもの年なら春が来ることを待ち遠しく思うのに、今はそうじゃなかった。

僕はこれ以上、時間が進まなければいいのにと思う。

いつも思う。このまま季節など、移らなければいい。

そうすれば、タティはずっと生きているのに。

この切なる祈念を受けとめてくれる神が存在しているなら、僕はその人に言いたかった。

この地上を生きるすべての哀しい人生を背負う人々を代表して言いたかった。

どうか時間を戻してと。


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