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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第11章 夕暮れロマンティシズム
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第152話 楓の執務室

そしてあの夜からひと月もする頃には、僕は更に優秀になった。

アディンセル家に仕える小領主たち同様、僕はこれまではできるだけ寄りつきたくなかった兄さんの執務室に、呼ばれもしないのに自分から出向いて行くようになっていた。僕にもいろいろとやることがあって、武芸を磨くことを日課とまではいかないものの、一週間のうちで必ず半分は時間を取るようにしていたし、赤楓騎士団の各拠点の視察について行ったりもした。

はっきり言って今でも騎士業は嫌いなのだが、それを行うことで心の負担が軽くなっていることにも気がついた。僕は自分で言うのも何だが不真面目な性格ではないため、本音のところでは嫌なことから逃げて、義務を怠り、怠惰でいる自分に嫌気がさしていたのかもしれない。

剣の稽古で汗を掻くことは、まるで土と埃にまみれた道端の労働者のようで好きではないし、生傷はできるが、逃げまわっていた苦役を果たしたと言うか、背負っていた莫大な債務を返済したような清々しい爽快感はあった。

それに兄さんが機嫌がいいときはチェスの相手をすることもあった。僕は頭脳を使うゲームに関しては、かなり強かったので、実力では兄さんにも負けていなかった。しかも僕は常に大人だった。ゲームで負けても潔くそれを受け入れるからだ。

一方兄さんはご自分が勝つと得意になって戦績を語り出すし、僕が勝ちそうになると説教を始めるので、その辺僕は嫌なのだが。

近いうちに側近を二名増員すると通告されて、気持ちが何となく落ち込んだりもした。カイトと二人で上手くやっているから、人が増えるのは望まないことを伝えたのだが、兄さんは決定事項だと言った。


「娘をアレックスの秘書に? 却下だ」

「何故です。サヴィル家の者を新たにアレックス様につけるのなら、当然ウェブスター家からもそうして然るべきではありますまいか」

「既にカイトがいるだろう」

「是非に娘を」

「駄目だ。何度も言っているように、あれは使えん。それに気性難すぎる」

「なんと手酷い。我が娘は馬ではないですぞ……」


また別のとき、暇な時間にときどき執務机を挟んで展開される、兄さんとデイビッド卿のやり取りを、ジェシカは恒例行事と評した。


「彼は本当に懲りないと言うか、粘着質と言いますか、とにかくしつこい男なのです」


そう言って僕に説明をするジェシカは明らかに呆れていた。

そのとき室内には他にジャスティンとビルがいた。ビルは白髪混じりの黒髪をした四十代半ばの男だ。現在では恰幅がよく、額が少々上がっているが、温厚そうな容姿のせいか近寄り難い雰囲気はない。

ミラン子爵は最近は何かとよく顔を出しているようだ。彼は僕とジェシカが話している辺りとは、真逆の壁際に直立していた。彼は僕やジェシカのおしゃべりとも、一線を画していたのだ。前から当然分かり切っていることではあるけれども、真なる所領政治の場では、兄さんですら若造という、そういう認識なのだということを、この執務室に出入りする人間の年齢層の高さから、僕は肌で感じるに至っていた。


「彼は娘をカイトと婚約させると言ったんじゃなかったのか?」

「諦め切れないのですよ」


僕の質問に対し、他人事そのものというようにジェシカが応じた。


「平民の血を直系に入れれば何かと問題がある。それも女を見初めて娶るというのならばまだしも、平民の血に汚染された傍系を引き入れるというのだから、卿にしてみれば大惨事だろうね」


やがて近くにいたジャスティンも、執務机でのやり取りを横目で見ながら、幾らか小声で会話に加わって来た。彼はビルよりはジェシカと親しいようだった。


「大事な娘御を平民などに盗られては、まさに人生のすべてを奪われるようなもの……、ですから、何とかアレックス様と親密にさせたいのでしょう。彼は下手に出てでも物事をごり押しするのが常套」

「無駄なことを。あの男の娘は、何かと騒がしい娘のようだが、率直に言ってアレックス様には不釣り合いだ。あの娘ごときがシエラ様を差し置けるわけがない」


言いながら、ジェシカは失笑した。

それに対し、ジャスティンはヴァレリアをフォローした。


「しかしヴァレリア嬢も、界隈の社交界ではなかなか目立つ存在ではあるようだけれどね」

「目立つ? アディンセル家に女主人や姫がいないのをいいことに、でしゃばる浅はかな女どもの一人ではないか。アディンセル家に対する忠誠心に欠ける者だ」

「これは手酷い。若い娘に嫉妬ですか?」


ジャスティンは先刻のデイビッドの仕草を真似してジェシカをからかった。

ジェシカはジャスティンを睨んだ。


「貴公こそ。常日頃忠節に重きを置き、女に隷従を期待し、淑やかな妻をなお怯えさせる冷酷な男が、何故そこでウェブスター家の娘の肩を持つのだ? あのお転婆娘の?」

「いや、肩を持ってはいない」


ジャスティンは即座に首を振った。


「俺は太陽神の古い教義に従う敬虔な神の信徒であり、妻をこよなく愛する忠実な夫だ。根も葉もない言いがかりはやめて欲しいね」

「言いがかり? 私は何も、言いがかりをつけてなどいないが……、まあ、何でもいいが」


ジェシカは不審そうな顔をしてジャスティンを見た。

ジャスティンは不意に僕に笑った。


「無論私とて、シエラ姫様は地方男爵の娘など問題にならぬ美しい方と思いますよ。彼女はそう、白百合か、木蓮のように清楚で上品。私も彼女を初めて拝見したときには思わず見入ってしまった。あれは一国の王女と言っても差し支えないでしょう。

だが惜しむらくは保護者に恵まれなかったということか。十八歳と言えば、十分王子殿下の花嫁となれる年齢だ。あれほどの美貌ならば、低く見積もっても有力公爵家に嫁がせることが可能だったろうに、無能な兄を持って哀れとしか言い様がない」


しかしジャスティンの言い分に、ジェシカはいきなり表情を険しくして彼を睨んだ。


「それはアレックス様に対する侮辱か?」

「とんでもない。……やれやれまったくジェシカ女史には敵わんよ」


ジャスティンは少々嫌味混じりの謙譲を、しなやかにジェシカに示した。

ジェシカは息を吐いた。


「とは言えだ、その件に関しては、少々面倒な話が聞こえているな。私としては、シエラ様のように貞淑な方がアレックス様の花嫁となり、アディンセル家に入ってくださるのなら、言うことはないと思っているのだが」


ジャスティンは頷いた。


「しかし報告は確かだよ。俺が請け負う。諜報は我が家の得意分野だ」

「何か、まずいことでもあるのか?」


僕は、二人の表情がそろって芳しくない理由をたずねた。


「ええ、大した内容でないと言えばないのですがね」


ジェシカは僕を見て言った。


「最終的にはギルバート様のご判断ということになります。現段階では我々が不用意な憶測。追って沙汰があるかと存じますので」

「気になるじゃないか」

「どうぞお許しを」


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