第148話 冬の終わり(3)
広い執務室内に入ってすぐ、僕らはその場の緊迫した状況に立ち会うことになった。
シエラの立ち入りを阻んだジャスティンの判断が正しいと言わざるを得ない、まるで針で素肌を刺されるかのような、ピリピリとした嫌な空気が場に満ちていた。
正面中央にある執務机にいる兄さんは、いつもの通り葉巻でも燻らせかねないような、悠然とした構え方をしているのだが、その周りにいるジェシカやルイーズ、それに何人かの伯爵の側近たちが、皆殺気立っている様子なのが分かった。ジャスティンの父親であるヘイゲン・サヴィルやビル・ミラン、オード・バインド、それにデイビッド・ウェブスターの姿もあった。
兄さんと対面しているのは、ウィシャート公爵家直属の貴族たちとその護衛たちのようだった。わざわざパブリックスペースで待たせておくべき護衛までを、伯爵執務室内に通さざるを得なかったのは、彼らがウィシャート公爵の名前でやって来ている使いであるためだろう。ざっと数える限り、全部で二十名以上いた。
僕らの入室にあたって、彼らのうちの何名かが、確認するようにこちらを振り返る。笑顔どころか会釈が発生する素振りもない。執務机の兄さんもまた僕の顔を一瞥し、それから何事もなかったように客人に視線を戻した。
少し会話を聞いているだけで、兄さんと彼らが対立しているということが分かった。彼らは兄さんを面と向かって侮辱し、裏切り者と罵っていた。そのために兄さんに忠誠を誓う者たちが、その憤りを隠さないというそういう場面だったのだ。
この使者団の代表らしき男が、兄さんよりも格下であることも当然あるだろう。
「アディンセル伯、貴様はそれでも騎士なのか……、我らが閣下が長い間特に便宜を図ってやっていた大恩を、よもや忘れたと、こういうことなのか!」
声を張り上げているのはウィシャート公爵配下のゲイリー伯爵だ。伯爵と言っても厳密には兄さんとは立場が違う。彼は広大なウィシャート公爵家の領地管理の一部を与る従属領主と言えばいいだろうか。子爵の権限を少し大きくしたようなもので、アディンセル家ほど様々の自治権を認められてはいない下級伯爵だ。彼は確かトバイア様の最側近の一人だ。公爵と同年代、四十代後半の男だった。
「寄る瀬のない少年伯爵が、よもや実力であの王宮を渡り歩けたと驕っているのでもあるまいに。すべてはトバイア様の強力なる後ろ盾あってのことではないか!
閣下に対して、いろいろと言いたいこともあるだろう。我らが閣下はとかく直情的なところがおありの方、貴公としても苦い思いを味わわされたこともおありだろう。それは我らとて分かっている――、だが、だがそれでも彼が貴公に与えたものの大きさを考えられよ。
宮廷における立場の確保、彼は常にアディンセル家の温情あふれる協力者だった、そして貴公を弟のように可愛がっていらっしゃった……、そうではなかったか? そうではなかったかね?」
ゲイリー伯爵は、どうやら兄さんを説得している様子だった。懸命さを通り越し、必死さが窺えるのは、僕の気のせいではなかっただろう。
「しかし閣下は彼らを拒否するおつもりなのですね」
カイトがジャスティンに言った。
ジャスティンは無言で頷いた。
「僕はなんで呼ばれたんだ? 取り込んでいるみたいだけど」
僕の質問に、ジャスティンはさっきカイトに向けたものよりも、もっと鋭い眼光を僕に向けた。
「貴方にもそろそろ慣れて頂きたいとの仰せです」
ゲイリー伯爵の話は続いていた。
「それを形勢不利と見るや意図も容易く見限るような真似をするなど何たる傲慢!
伯爵、貴様は確かトバイア閣下に女を取られている者の一人であったな」
ゲイリー伯爵の不意の言葉に、兄さんの眉が微かに動いた。
「そうだ、そう、あれは大層いい女だな。名前は何と言ったか、淡雪のごとき柔肌に、美しき金の髪……、トバイア様は大抵の女は飽きれば下請けに放るか殺してしまうが、今なおご自身で飼っていらっしゃるとはさぞかしあちらの具合がよろしいのであろう。
そうそう、思い出した……、あの娘は凌辱に耐え切れずに、早々に気が狂ってしまったのだったな。堪え性のない女だった。それでいつだったか、気が狂った娘が子を孕んだと、あのときのトバイア様は随分興奮をしていらした。母親の頭がおかしいと、生まれて来る子供はどうなるのか実験するのだとおっしゃってな。ぼて腹の彼女は妙にそそったよ、白痴美とは言ったものだが――」
「言いたいことはそれだけか」
兄さんがいつもより低い声で言った。
「貴様は身の程を知れということだ、ギルバート卿」
ゲイリーが兄さんを牽制した。
「貴様は所詮、サンセリウス王に仕える臣下の一人に過ぎん。こんなふうに手下をはべらせていても、私と同じ、所詮は地方領主でしかないということだ。王宮で傅かれる存在には、なり得んということなのだ。
他方でトバイア様は、建国王セリウスの由緒正しき血を受けし者だ。今は一時的にドブネズミの王子が幅を利かせているが、本来老王陛下の正当なる後継は彼だ。
聡明と評判の伯爵ならば、もはや私の言いたいことはお分かりだろう。身の程を弁えられよ。個人的な恨み事で、大事を見失ってはいかんのだ。どうした、先ほどまでの余裕の薄笑いが消えたではないか。年長の私にはよく見えるぞ、貴公は何のために女を閣下に献上したか、よくよく思い出してみるがいい。
彼女を生贄に差し出したのは、いったい何のためだった? 泣き叫ぶ彼女を見殺しにし続けたのは何のためだ? すべてはトバイア様に取り入るためだったのではなかったか。
あの方を支持し、彼に縋ることで、貴公はアディンセル伯爵家の生き残りを図ったのだ。重大な決断だった。勇気ある決断だったよ。少年の身でありながら、凍るような無表情でいたいけな少女を見殺しにする貴公の残酷さと精神力は、我々の間ではちょっとした英雄だったのだ。そう、貴公はまさにダークヒーローだった。若い人間は大抵、目前に展開される悲劇と良心の呵責に耐えられない。泣き叫ぶか、酷い者は女を助けようと我を忘れて舞台に飛び出してしまうのに」
「……」
「トバイア様はまだ死んではいない。彼には意識があり、再起を図ろうとなさっているのだ。トバイア様が復帰されれば、相手は下賤腹のひ弱な王子だ。まだまだ戦うことはできるもの。そのとき貴公の裏切りを知れば、彼はいったい何をするだろうかね。貴公はこれまでの人生を棒に振るつもりか? 彼女が可哀想だとは思わないか?
哀れにも、冷酷な貴公の本性を彼女は最後までまったく知らない様子だった。ギルバート様と泣きながら、それでも貴公が助けに入ってくれることを信じて、とうとう見殺しにされたあの娘の犠牲が完全に無駄になるぞ? 万事にもっと慎重になることだ。
よろしいか伯爵、これは脅かしではない。ここは我ら一門にとって正念場なのだ。我らも本気なのだということを理解されよ。貴様が大恩ある我らがトバイア様を支持せず! 生まれながらの売春婦を母に持つ、妾腹生まれの王子を支持すると言うならばだ!
若造の過ぎたる驕慢はいつの時代も重篤な生命取りとなること、とくと自覚されるがよろしかろうぞ!」
ゲイリー伯爵の言い分に、執務机の前にいる数名の貴族たちは一斉に賛意を示した。
兄さんは頷き、やがて静かに一同を見渡した。




