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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第10章 涙の物語
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第145話 独白

それから僕はいろいろなことを考えた。

ルイーズは自分のせいで兄さんとアレクシスが引き裂かれたと思い、その贖罪のためだけに残りの人生を生きようとしているように感じたが、たぶん、僕が見たところでは、ウィシャート公爵がああいう本性を持っているのなら、彼はまず何としても兄さんの身近の女を手に入れようとしただろう。

そして兄さんの周りには、腹違いの姉妹だとか、従姉妹だとかがいなかった以上、兄さんを操れるほどの影響を持つ女は乳姉妹である彼女たちしかいなかった。だからいずれどちらかが持っていかれただろうと僕は思った。もし僕が女子だったら、僕が持っていかれたかもしれない可能性もあった。

そう、紛れもない兄さんの実子でありながら、僕を兄さんの子供ではなく、父上の正式の子供としたことも、名家であるアディンセル家の当主の嫡子ともなれば、そうそう手出しができないことを見越してのことだったのだろう。

兄さんはアレクシスととうとう結婚できなかったから、そうなると僕は、本来であればアレクシスの私生児となってしまうのだ。我が国の体質から言えば、兄さんから実子の認知を貰ったとしても、世間的な信用の面から言えばどうしても欠損が生じてしまう。でも前当主夫妻の晩年の遺児ともなれば、周囲からの同情と関心、それに尊重を勝ち取るのは容易いことだった。

僕のことを、当時肺病患者であったギゼル妃の実子としたことについては、いろいろ難しいところなのだが、医者や魔術師等の環境と本人の状態によっては不可能と言い切れることではないと、権威を使って主張することくらいはできるだろう。また幸いだったことは、如何なる運命の悪戯か、僕は兄さんでもなければアレクシスでもなく、兄さんの母上であるギゼル妃にいちばん顔が似ていたことだった。

だから成長してからも僕が父上と母上の子供であることを、ほとんど疑われずに受け入れられたのだと思った。

初恋のアレクシスを、権力者の気まぐれな慰み目的で没収されたこと。これは、これだけでも死にたくなるような悲劇だった。しかし神は能力の高い者にこそ次々と試練をお与えになるという話を引用するならば、それで終わらないのが兄さんの人生なのだ。

兄さんはウィシャート公爵の身近な配下として、父上から譲り受けたアディンセル伯爵領を守るために、あの男の手下として人生の多くの時間を割かなければならなかったのだ。

腹の中は煮えたぎっていただろうに、兄さんはそんな感情を露ほども面に出さず、公爵に傅き爽やかな笑顔で接していることがどれほどの屈辱だっただろう。

またあの公爵の性格からいって、アレクシスがベッドの上でどうであるかという卑猥な話を聞かされないはずがなく、それからも兄さんがどれほど酷い思いをさせられ続けたかということは、想像するに難くなかった。

その結果、手当たり次第に金髪女に手を出して、何とかその焦燥を癒そうともがいていたのだろうことを、僕はようやく理解できるに至った。

もっとも、だからと言って僕は兄さんの人格や、これまでやっていらしたことのすべてを許容することができる考えに至っているわけではなかった。彼が行ってきたことの中には、当然糾弾されて然るべき残虐行為がひとつやふたつでは収まらないし、愛する人を失って、心が壊れてしまったというルイーズの兄さんに対する評価はたぶん正しいのだろう。彼は壊れているし、ある意味では狂っていた。

だけど兄さんが背負ってきた苦しみについて知ってしまった今となってはもう、僕は子供じみた綺麗事を振りかざし、自分だけが安全な場所に立って、兄さんを批判するということができなくなった。

兄さんがときに領民の生命など虫けらのようにしか思わない側面があることを知っているが、それでも領主が領民の生殺与奪を自由にできることは、我が王国において通常のことであり、陛下が領主に許している権限のひとつであって、何も兄さんだけが特別に残酷であるわけじゃない。僕はある時期そのことを理解することができなかったが、もっと酷い人間は幾らでもいて、不当な収奪、残虐な拷問について話題にもならないほど枚挙に暇がない。

ウィシャート公爵がやっていたことすら、冷静になってみれば、たぶん何処にでも転がっている他愛のない話だろう。対象が貴族の娘、しかも自分の母親だったから僕はとんでもないショックを受けているが、農民の娘をさらって来て悪逆を尽くすなんてことを、少し残忍性を持っている貴族なら、そんなことは取るにも足らない趣味の範疇だ。

それに領主として、兄さんというのはとても優秀な存在だった。行政にたずさわるようになって初めて分かったことだが、意外にも彼の中には世の中に対する高い理想というものがあり、それは慈悲心とは少し違った欲求であるにせよ、結果として領民の利益に適う豊かな社会整備に強い関心を持っていた。

僕が中でも感心したことは、彼が自分の代になってから領主権限において平民階級の子供にさえ強制的な教育期間というものを設け始めたということだったが、教師を集めるだけの政治力と、資金源のあるという好条件が揃っているとはいえ、これは他の多くの領主が未だ実践していない大変優れた政策だった。

教育を施すということは、莫大な金がかかる上に結果がすぐに出ることもないので、どうしても後まわしにされがちなのだが、貧困に対抗するために教育というものは不可欠で、例を挙げるなら字の読み書きができないばかりに損害を被ったり人に騙されるという悲劇を、領民の人生から撲滅させることができるということなのだ。基本的な教育、これはかけがえのない財産であり、人生において更なる発展を獲得し、知識欲を満たす幸福を得るための強力なコネクションを、彼らの人生にもたらすということだ。

実際、兄さんの所領における若年層の識字率は国内でも非常に高かった。都市部では字を読めない若者を探すことのほうが難しいくらいだろう。兄さんが領主になって今年で十九年、政策の結果が出始めていたのだ。

そしてこのことが示しているのは、僕の兄さんは領民から搾取することばかり考えている領主ではない、それどころか、彼は僕が考えていたよりもずっと領民のために働く領主であるということだった。

実際、彼は領民に法外な徴税を強いることもなかったし、様々の嘆願にも応じていた。

彼は平民でも意欲や才能のある人間を積極的に騎士団に採用し、治安維持には特に積極的だった。女性蔑視は確かに激しいと思うが、それでも彼は口で言うほどには女性を駆逐するようなことはしていなかった。

相対的に見て、僕の兄さんは非常にバランスの取れた優れた領主だったことを、僕は今更ながらに思い直していた。よき領主となれという晩年の父上の言いつけを、兄さんは父上のことをときどき辛辣に罵りながらもきちんと守っていたのだ。

そして僕は確かにルイーズの言う通り、兄さんのこうしたよい面を見ようとせず、兄さんがときどきやらかす少々人道的にはずれた行いばかりを近視眼的に固執して腹を立て、冷静さを欠き、遂には彼を殺そうと思い立ったのだ。

だけど世の中を俯瞰してみれば、兄さんの判断には常に大義があった。

兄さんはアレクシスがウィシャート公爵に奴隷のように扱われているのを知っていてなお、もうずっと長い間酷い精神状態に違いなかったのに、冷静さを失わず、自分を見失わずに、冷徹なまでに全体の利益を優先してきたのだ。

アレクシスを助けるために、それ以外の多くの人たちの人生を台無しにするべきではないと、きっとつらい気持ちを堪えて、彼は判断してきた。

それなのに僕は兄さんがとうに世間に出て、大変な思いを味わっていらした年齢になっても、兄さんの庇護のもとでぬくぬくと安心して暮らしていた。好きな本を読み、うっとり季節を楽しんだり、散歩をして暮らしていられたのだ。

それならばせめて兄さんの精神的な助けになれていたかと言えば、僕は兄さんの苦悩を知ろうともせず、彼の力になろうと心を砕くこともなかった。

武官の家柄に生まれながら、騎士としての務めを苦手だからという理由で放棄し、日々兄さんの機嫌を伺い、さもなければ彼のやり方を批判し、自分の中の小さな世界を守ることだけに必死になっていた。

そんな僕が兄さんに敵うわけもなかったし、自分が彼よりも正しいなんてことを、無知な子供のように主張できるはずもなかった。

僕はもう、兄さんのことを憎むことができなかった。もう誰を憎んでいいのかさえ分からない。

本当は僕は、タティが死んでしまったら、僕も死のうと思っていたんだ。

だけどそれすらも、世間知らずの子供が選びがちな自己愛的発想な気がして、僕はただ疲れ果てていた。


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