第144話 涙の物語(9)
そして場面が変わった。それは本当に酷い場面だった。
ここは「飼育場」と、ウィシャート公爵周辺の貴族たちからは呼ばれている場所だとルイーズが僕の耳元で解説した。
公爵が所有する数え切れない別荘のうちのひとつ、特に目立った特徴もない建物の中に、公爵に連れられて兄さんとルイーズは入って行った。
長い低木の道を抜け、洗練された建物の中には小劇場のようになっている部屋があり、兄さんたちはそこに通された。部屋の中央に舞台があって、その周りを取り巻くように五十席か六十席ほどの観客席があった。
室内には兄さん以外にもウィシャート公爵の配下と思われる者たちが十数名いて、浮かない顔をしている者もいれば、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべている者もいた。
兄さんとルイーズは舞台のすぐ前の席に座るように指示された。中央の特等席だった。周囲のざわめきから、本日の犠牲者は美少年伯爵か、などという揶揄が聞き取れた。
それからほどなくして、兄さんはウィシャート公爵によってある特別のショーを見せられることになった。
少年だった兄さんの前で何が行われたか――、その不穏さのために心臓が爆発するほどの酷い情景を、僕は目の当たりにすることになった。
ウィシャート公爵が、金髪の少女を……、まさに奴隷のように縄をかけられ、舞台の上に引きずり出された全裸も同然のアレクシスが、兄さんとルイーズの視界の中に入った。
ウィシャート公爵は狂ったような顔をして兄さんに視線をやってから、ショーの始まりだと言って兄さんの目の前でアレクシスに覆い被さり、いたいけな彼女を襲い始めた。アレクシスは泣き叫んでいた。これは、乱交なんてものよりももっと酷い代物だと、僕が理解するには数秒かかった。乱交は少なくとも合意の上でのものなのかもしれないが、ここではアレクシスに意思があることさえ、誰も信じていないからだ。
「地獄ってこういうことを言うのよ」
僕の傍でルイーズが再び注釈を入れた。
「招待されるのはウィシャート公爵の配下。彼は自分の手下である者たちの前で、その縁者だった女を犯すの。私に目をつけたのも、私がギルバート様の乳姉妹であることを予め分かった上でのことだったのね。
でも彼は自分への忠誠が揺るがないために人質としてそうしているという側面もあるけれど、公開で泣き叫ぶ女を犯すのが趣味なのよ」
兄さんは、伯爵になってから何度も繰り返しアレクシスがそうされるのを見せられていたことを僕は知った。アレクシスが兄さんの名前を呼び、兄さんの目の前で狂ったようになっていくのを、歯向かうことも許されずに黙って見続けていなければならなかったことを。
その残虐な出来事を一通り僕に見せ終わると、ルイーズが悲しげに目元を拭った。
僕は怒りのために身体が震える思いだったが、実際にあれを何度も見せられた兄さんは、もっとだっただろう。
「私が行けばよかったと、何度も思ったものだったわ」
掠れた声でルイーズは囁いた。
「恐ろしすぎて、そんな綺麗事が、到底できはしないことだと分かってはいたわ。でも、私はあそこへ連れて行かれたのが、私でなかったことに安堵をしている自分の感情さえも許せなかった。
可哀想に、姉さんはあんなに気が弱いのに、どんなに恐ろしかったか、どんなに悲しかったか……、しかも彼女はあんな目にあわされるのが、妹の私でなかったことを、神に感謝するような人だったの。物静かで、優しくて……、だからきっとそうだったに違いないわ。目で私にね、今すぐ逃げなさいと訴えていたんですもの……、自分のほうが、ずっと酷い目にあっているのにも係わらず、彼女は正気のある限り、妹の私を守ろうとしたのよ」
「兄さんは何故……、傍観を続けていたんだ、足でも縛られていたのか……?」
僕の質問にルイーズは答えた。
「いいえ、ご自分の意志でよ。勿論飛び出して行って、助ける自由は与えられていたわ。でもその後どういう目にあうかは、アレックス様にもお分かりでしょう。
これは、あの下劣な公爵が手下を試すための踏み絵でもあった……この悪意に満ちた非道な定期公演を、ギルバート様はとうとう耐え切ったわ。私は耐えられずに泣き叫んだものだった。でも彼は、絶対に泣いたり喚いたりしなかった。
だって、最初の約束では、五年もしたらアレクシスを解放してくれるということだったんですもの。約束通り、五年間このショーを観覧することを耐えさえすれば。
でも約束を守ったのに返してくれなかった……。当たり前よね、子供騙しの約束だもの。人質を手放すなんてこと、あの公爵がするわけがなかったの。
しかもアレクシスはあんな過酷な状況の中でも美しく成長して、やがて本格的にウィシャート公のお気に入りになってしまった。それに……、よりにもよってその約束の年に、彼の子供を産んだのよ……、ああ、アレックス様、こんなこと、あんまり酷すぎると思うわね?
そのときは私、ギルバート様になんて言葉をかけていいかさえ分からなかったわ!
私が死んですべてがもとに戻るのなら、喜んでそうしたかった。私があのとき大人ぶって、着飾ってパーティーに出さえしなかったら、どんなに悪いように物事が転がったとしたって、きっとこれほど酷いことにはならなかったに違いないんですもの!
私は、私こそがギルバート様から恋人を取り上げてしまった張本人なの。アレックス様、私は貴方からは両親を奪ってしまったの、そして、そして姉さんからは人生そのものをよ……!」
ルイーズは少しの間興奮して、泣き出していた。僕はルイーズに向かって、君のせいじゃないと何度か繰り返した。
「それを知らされてからよ。ギルバート様が、本格的に壊れてしまったのは」
やがて鼻をすすりながらルイーズは続けた。
「彼は今でも苛々していると、このショーのことを思い出して、アレクシスの身代わりの恋人たちや、アレクシスに似たような女を連れてきて犯しているわ。初夜権、あれはまさに欝憤晴らしの八つ当たりよ。
彼は……、ええ、彼は完全に狂っているわ! それまでは間違っても弱い者苛めを手を叩いて喜ぶような、そんな方ではなかったのに……、きっとアレクシスを返して貰えると信じて、健気にそのことを信じて耐えている誰よりも心の強い方だった。でもアレクシスが公爵の子供を産み……、若い私たちはこの世界に神などいないことを知ったの。そして正義感の強いお優しいギルバート様は、もう何処にもいなくなってしまった……」
ルイーズは囁いた。
「公爵様に逆らって、アレクシスを取り返すことはできたわ。でも、そうすれば様々な面で手酷い報復をされることは明らかだった。莫大な犠牲を払わなければならないことは分かっていた。若い伯爵に選択できる道は限られていた。
所領の安寧を維持し、民の人生を護るために働くあの方が、領民を苦しめるような選択はできないことだった。あの方が先代様の言いつけ通り、基本的には人々から慕われるよい領主であることを、貴方は知っているでしょう。
彼は愛するアレクシス一人のことよりも、領主としての立場を選んだのよ」
「……ルイーズ、アレクシスは……、つまり今はトバイア様の愛人ということなのか、だからここにいない……。
でも、公爵の愛人となれば……、公式の場所では無理でも、私的なパーティーなんかに姿を現すこともあるだろう。現に僕はトバイア様が細君でない女を連れて歩いているのを見たことがある。
つまり僕は、彼女に……、会えるということはあるんだろうか……」
「いいえ、会えないわ」
ルイーズは悲しくかぶりを振った。
「それは何故……、生んですぐ手放した僕のことなんか、忘れて……」
「アレックス様……、アレクシスは、気が狂ってしまったの。もう、正気ではなくなってしまったのよ……。
だから貴方と会っても貴方が誰かなんて、今のアレクシスにはまず分からないでしょう。
今では姉さんは、子供のような顔をして童謡を歌っているか、泣いているか、悲鳴を上げているか……、何年か前にね、公爵様の気まぐれで少しだけ面会を許されたことがあるの。でも、私が誰かすら分からない様子だった。アレクシスは暗い部屋の片隅で震えていた。私の姿を認めると、お姉さんはどなたですかって……、怯えた顔で聞かれたわ」
ルイーズの声は嘆きに震えていた。
「でもどうかアレクシスを責めないであげて……、アレクシスは貴方を捨てたわけではなかったのよ。だって、愛情のない男に抱かれてダメージを受けない女なんかいないものだわ……。まして女の中には、たった一度で魂が殺されてしまう弱い者もあるの。
あんな状況は、正気でいるには過酷すぎたのよ。繊細でか弱いアレクシスには、トバイア様を憎み続けたり、戦うということはできなかったの……、狂ってしまうことでしか自分を守ることができなかったの……。
でもアレクシスは今でもとても美しくて……、気が狂ってなお解放して貰えない……」
「そんな…、そんなことって……」
僕は堪らずに両手で顔を覆った。
「どうして……、こんなに重大な話を秘密にしていたんだ、僕はもう子供じゃないのに」
「ギルバート様は、貴方にアレクシスを重ねて見ているところがあるのよ。だから貴方もきっとアレクシスと同じくらいか弱くて、純粋で、繊細だって信じてる。実際の貴方は、さっきの行いといい、必ずしもそうじゃないって、私にはよく分かるわ。
でもギルバート様にとっては……、あの方の心の中では貴方はいつまでも小さな赤ちゃんのままなのよ。揺りかごの中にいた、アレクシスが彼の傍にいた頃の、あの可愛くて小さな貴方のままなの。
だから……、貴方がこんなことには耐えられないと思ったのよ。だからこんな残酷な事情を知らせるわけにはいかなかったの。
それに何より、貴方だけは汚らわしいものの一切から、守りたかったのよ。だって貴方は彼がアレクシスと幸せな時代を過ごした証拠なんですもの。ギルバート様にとって、貴方はアレクシスそのものなんですもの。
愛するアレクシスと同じ名前をつけたほどに、彼は貴方を愛しているの、アレックスって、彼がその名前を他の人よりもずっと多く呼んでいること、意味もなく呼んでいること……気がついていらっしゃらない?
彼は貴方を愛しているのよ、アレックス様」




