第143話 涙の物語(8)
「けれども私たちはしくじったの」
ルイーズが、僕の傍らで悲しげに囁いた。
「ジェシカ様は幼少より騎士としての訓練こそ積んでいらしたとはいえ、無抵抗な少女を殺すなんてことをしたことがなかったから、彼女だって本当は、可哀想なくらい動転していたわ。騎士は女子供を護るためのもので、殺すものじゃないって、彼女なりの信念があったのに、ギルバート様のもとに着任した最初の殺人任務がこれだったから……。
それでも姉さんを殺させるために私が実家に手引きして、ジェシカ様は姉さんの寝室に入って行った。そして確かにアレクシスを仕留めたと言って、血まみれになって彼女は出て来たのだけど、私の母は一枚上手で、予定より早く、もう既にアレクシスは公爵様のところへ送り届けられた後だった。先代伯爵様と私の母が、利発なギルバート様が取るであろう行動を予測していたのね。
ジェシカ様が殺したのは、私の実家で使っていた小間使いの少女だったの。私の母がその小間使いをアレクシスに化けさせて、アレクシスの寝室に寝かせていたことを、だいぶ後になってから知らされたわ」
「ジェシカは今でも、自分が僕を生んだ人を殺したと思っているみたいだった」
僕が言うと、ルイーズは頷いた。
「あのとき身代わりを用立てられていたことを、ジェシカ様には教えなかったの。そうすれば、彼女はきっと自分のせいでアレクシスを持っていかれたと気に病むでしょう?
真実を知れば、あのとき寝室に寝ていたのがアレクシスじゃないと気がつくことができてさえいたなら、もしかしたら追いかければまだ間に合ったかもしれないというふうに、あの方は自分を責める方だわ。
だからアレクシスが無事に死んで、陵辱の憂き目になんかあわなかったと信じさせてあげるべきだと、ギルバート様と話し合ったの。こういう言い方は他人行儀かもしれないけれど、当時の彼女は、私たちの問題にとって完全に部外者だったんですもの。
何より……愛するアレクシスの不名誉を、ギルバート様も私も、誰にも教えたくなかった……。
もっともジェシカ様は、それからギルバート様の代わりに何人もの人間を処刑したり、酷い場面をたくさん潜って来ているわ。だからもう、秘密にするほどの秘密でもなくなっているかもしれないけれど、当時はね……」
そして再び僕の心の中に映像が広がった。
アレクシスを公爵に没収されて、少し経った頃のことのようだった。
父上がお隠れになり、兄さんは十五歳の若さで伯爵となっていた。美少年伯爵だと、兄さんが宮廷でたくさんの女の人たちから誉めそやされている光景が見えた。その様子から、ウィシャート公爵が父上にした約束は確かに履行され、その執り成しによってアディンセル伯爵家の先の大戦での失態が許され、その待遇は格段によくなっていることが分かった。その理屈は簡単で、どんなに素晴らしい美青年だろうと、陛下の覚えの悪い者を、王宮の女たちがそんなふうに讃えたりはしないからだ。
勿論、公爵が善良な考えばかりでそうした施しをしてくれたとは思わなかった。兄さん自身の能力の高さを買って、若い彼を飼い慣らそうという意図は当然あっただろうし、もしかすると宮廷で上手く立ちまわって、兄さんがご自分で陛下に評価を頂いたということもあったのだろう。それともその頃はその最中であったのかもしれない。
そして相変わらず年齢よりも体格がよくすらりと大人びていた兄さんは、その当時から女性にとても人気があったようだった。
しかしその表情は何処か暗く、もうアレクシスが傍に居た頃のような、わくわくするような明るい顔をすることはなくなっていた。と言って今のような自信にあふれた顔つきでもなく、どんなにちやほやされていても、いつも神経質そうに顔を歪めているばかりの少年だった。
彼はとても頭がよく、弁が立ち、責任感の強い性格ではあったが、今の僕よりずっと若くて、体格がいいとは言ってもまだとても頼りなかった。それなのに子供の彼が赤ん坊の僕を抱え、独りぼっちでどれほど心細い思いをしていたかを思うと、二十歳にもなってまだ甘やかされて安穏と暮らしている僕は、申し訳なさで胸が詰まった。
ふと、王宮を歩く兄さんが、当時まだ御健康でいらっしゃったフェリア王女の姿を眩しく眺める姿が見えた。兄さんの後ろについて歩いているルイーズは見事な金髪を少年のようにばっさり切り落とし、黒く染め、兄さんに言われた通りの地味な服装をして控えていた。
他方、フェリア王女は長い金髪を背中に揺らしたまさに絶世の美少女で、あのフレデリック王子の姉姫様であることが頷けるだけの輝きを持っていた。
大勢の従者に囲まれ、守られて、幸せそうに微笑んでいる王女様の御姿を、遠くからぼんやりと寂しく眺めている兄さんが、皮肉にもアレクシスと背格好の似た彼女に誰を重ねているかは、語るべくもなかっただろう。
「ギルバート」
兄さんの前に若かりし日のウィシャート公爵が現れ、公爵は従妹の王女の美しさについて、また彼女を自分の妃にする予定であることを一通り兄さんに自慢した後、こう言って微笑みかけた。
「今日は久しぶりに、私の別荘に遊びに来ないか」




