第142話 涙の物語(7)
「ギルバート様、姉さんは……、ウィシャート公爵に売られるのですか!?
私の、身代わりになって……」
泣きそうになりながらのルイーズの質問に、兄さんは怒りを収めきれない顔で頷いた。
「そんなっ…!」
「私は父上と話をしながら二つのことを考えていた。
ひとつはアレクシスを連れて出奔するか、それともアレクシスだけを逃がすか」
「どう…されるおつもりなのです?」
ジェシカがたずねた。ジェシカはその頃兄さんの騎士として側に仕え始めたばかりであるようだった。彼女が少しでも早く兄さんの右腕となるべく、兄さんの役に立ちたいと考えていることが伝わって来た。
兄さんは答えた。
「結論はこうだ、私はアレクシスを殺すことにした。
何故ならば、私があれを連れて逃げても、まだ身体の弱っているアレクシスでは思うように動けない。アレクシスに不安や苦しい思いをさせるだけだということ、そしてここでは父上のご意向がすべてだ。だから所領内の誰もが、彼女の冷血の母親でさえ、アレクシスを公爵に差し出そうとするだろう。私の年齢と体力を考えても、到底逃げ切れない。
と言ってアレクシス一人では、もっと無理だろう。
口惜しいが、あの汚らわしいウィシャート公、次の国王である奴に逆らえば、地方領主など破滅するしかないことは私にも分かっている。アディンセル家は陛下に疎まれているから、他の領主の調停も助力も得られないことは分かっている。
だから、薄汚い男に陵辱されることを思えば、アレクシスも……、分かってくれるだろう……」
兄さんの苦しげな言葉が途切れるのを待たず、ルイーズが口を挿んだ。
「待ってよギルバート様、そんなに簡単に……、もっとよく考えてみましょう、ここにいる三人で、知恵を絞りましょう! 姉さんを助けて、なおかつ公爵様も諦めさせる、誰も犠牲にならないで済む何かいい方法が思いつくかもしれないわ。
それなのに、考えもしないうちから諦めてしまうなんて、そんなの、あんまり合理的すぎます!
確かに貴方のおっしゃることは正論なのかもしれないだけどっ、姉さんは、命懸けで貴方の赤ちゃんを生んでくれたのよ!」
すると兄さんは大きな声でそれに反論した。
「死んで構わないわけがないだろう、誰がそんなことを言った! だが汚されるよりはましだと言っている!
アレクシスが死んでいいわけがないだろう、だが私に他にどうしろと言うのだ。私は無力な子供なのだ。私は幼く、耐え難いほどに未熟で、そうする以外に思いつかない……!
他に何か超法規的な手段があるなら言ってみろ、何か、奇跡的な魔法のようなもので何もかもを解決できるのであれば私もそれに従う。だが、そんなものはないんだ!
我が母上はもう春までお生命が持たないと言われている。その上に父上までも近頃はお身体が弱り、散歩さえもままならない状態だ。お年なのだ。日々の天候が厳しくないことを神に祈らねばならぬようなご体調なのだ、ルイーズ、おまえの親は若いから、私のこんな気持ちがおまえには分からないのだろう、両親が二人ともいなくなってしまう私の泣きたくなるほどの不安な気持ちが、だが、私はそうではないんだ!
私はこれから乳飲み子を抱えて、私がやっていかなければならないんだ。何でも私が一人でやっていかなければならない。私ほどいま自分が大人であったらと痛切に考えている者もいないだろう。だが私が幾つか知っているか、まだ十三の誕生日さえ迎えていないんだ!
いったいどうしたら納得するって言うんだ、ルイーズ、アレクシスが、あの汚らわしい公爵に好きなようにされることを防ぐために、他に何ができる。それともおまえが奴のところに行くとでも言うのか!?」
兄さんに怒鳴りつけられたルイーズは、一瞬戸惑いを見せたが、やがて毅然とした顔をし、兄さんを見て首を縦に振った。
「勿論だわ!」
「ルイーズ」
「私が……、私がウィシャート公爵様の慰み者になります!
姉さんではそんなこと、絶対耐えられないわ……、でも私なら、我慢すればきっと……」
しかしそれと同時にジェシカが驚いてルイーズを叱責した。
「ルイーズ、おまえは何を言っている! おまえはギルバート様をお護りする任務を放棄するつもりかっ!」
「ジェシカ様……、だって、もともと私が目をつけられたのよ。だったら私が行くのが筋というものだわっ。
ましてや姉さんにはアレックスちゃんがいるのに、そんなことさせられない!
それに姉さんは、ギルバート様とアレックスちゃんの大事な人なの……、でも、でも私はそうじゃないものっ……!」
「甘いことを言うな、おまえは誰の魔術師だっ!」
ジェシカは憤慨した顔で、涙をこぼしているルイーズを更に怒鳴った。
「貴様はその立場にある者としての自覚を持て! 貴様の代わりこそ他にはいないのだ!
私は着任して日が浅いが、おまえとは今後数十年間ギルバート様配下として仕える仲間となることを前提として、ここははっきりと意見させて貰う。
残酷な話ではあるが、アディンセル伯爵家にとっておまえのほうが姉より重要だと、アディンセル家の重鎮方や他でもない伯爵様がご判断されたのだ。
そして今の我らが考えるべきことは、ギルバート様のご意向に従うこの一点に尽きる。ギルバート様が苦しい気持ちを堪え、覚悟を決められてこう仰せになられているのに、おまえが困らせるようなことを言うものではない! ましてやギルバート様から配慮を期待するような言動をするとはっ!
その些細な甘えが致命傷となるのだ。我々は将来の伯爵閣下の側近なのだ。おまえは自分の立場の重さを認識し、もっとプロ意識を持て。女であるという甘えを捨てろ。馬鹿のようにいちいち自分の都合や感情を持ち出すなっ。何があろうと、ここでは自分の泣き事など通じぬことを教わらなかったかっ!」
「でもっ、でも姉さんがっ……、アレクシスがっ……。
これ以外にどうしたらいいの、いったいどうしたらっ……!」
「クソッ!」
兄さんは近くの壁を蹴りつけ、しばらくの間沈黙が続いた。
やがて兄さんは深呼吸ともため息ともつかない呼吸をし、ジェシカに言った。
「ジェシカ、急のことではあるが、この中でアレクシスと唯一親密な関係がないのはおまえだ。おまえがやってくれるな。アレクシスを」
「はっ、承知致しました……」
殺人を命じられた少女のジェシカは頼りなく震えていたが、表情だけは勇ましい顔をして、恭しく一礼をした。
それから兄さんはルイーズを見た。
「ルイーズ、泣いている暇があったら、おまえは髪を切れ。当分は目立たないようにしろ。
そんな格好でいれば、あいつはおまえのことをまたすぐに所望するだろう。
そのときには、もう、庇いようがないんだぞ……」




