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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第5章 アレックスと夢見るタティ
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第14話 月夜

私室に戻ると、室内にはまだタティがいた。

窓の外にはとうに夜の帳が降り、大窓から薄暗い室内にはその夜の清らかな月の光が注ぎ込んできていた。

しかし僕の帰室に気がつくと、窓際にいたタティが慌てて近くの壁やエンドテーブルの上のランプに灯をともし、すぐに部屋の中には赤みを帯びた温かい光が広がっていった。


「あの、申し訳ありませんアレックス様……、さっきは……」


タティは、いつも通りの分厚い眼鏡と白いブラウスと、踝まで隠れてしまう地味な茶色のスカート姿をしていた。

貴族の娘なのに、考えてみればタティが着飾っているところを僕は今まで一度も見たことがない気がした。タティの母親は美人だったのかもしれないが、彼女もまた控えめで、似たような服装をしていることが多かった。飽くまで僕より目立ってはいけないという考えのもとで、タティのことを教育していたのに違いなかった。


「あ、いや……。

いいよ……、僕も驚かせてしまって悪かったね。……月を見てたのかい?」

「はい、あの……、今夜は満月みたいで……」


タティは、窓の外のほうに指先を示しながらそう言った。

その態度は柔らかく、僕は彼女と意思の疎通が図れそうな予感がしていた。

何と言っても僕らは本当に兄弟のような関係だったし、その認識はある意味では、ずっと年が離れている兄さんよりも僕の中では強かった。僕もタティもどちらかと言うと積極的な物言いをする性格ではなかったので、僕たちが喧嘩になるようなことは滅多にあることではなかったものの、ごくたまに気持ちがすれ違うことが、これまでにだってまったくなかったわけじゃない。

だけどそういうときだって、僕らはいつの間にか仲直りをしていたものなんだ。どちらからどうっていうことがよく思い出せないくらい、僕らはいつも、いつの間にか笑いあっていた。

つまりそれは、とにかく僕たちはいつだって分かり合えていたということを表しているし、それは勿論、今だってそうなんだ。

それで僕は、頭の中ではすっかり仲直りを済ませた気持ちで、いつも通りの気楽さで部屋の中のタティのところまで行こうとしたのだが、しかしどういうわけか、タティが微妙に緊張して身体を強張らせるのが分かった。まるで信用ならない男が近づいて来たとでも言わんばかりの彼女の態度に、僕は少なからず傷ついた。

それでも、どうにかそれを気にしないふりをして僕が更に窓辺に近づいて行くと、それにつれてタティはそれまで彼女が立っていた窓際から、明らかに何歩も後退りして離れて行った。

僕は立ち止まり、自分のブーツのつま先を何となく見つめた。

僕らはつい最近まで、ついこの朝まで、本当の兄弟みたいに過ごしていたのに、どうしてこういうことになっちゃうのか、僕にはまるで分からなかった。

もしかしてタティは、僕がタティを襲うとでも思っているのだろうか。

僕は一緒に月を眺めるなりして、昼間のことを、何事もなかったようにしたかっただけなのに、タティのこうした態度こそが僕らの仲をこじれさせている最大の原因であるということに、彼女は気がつかないのだろうか?


「あの…、アレックス様、椅子をお持ちしましょうか……?」


仕方がないので、僕が一人で窓際で夜空の満月を眺めようとすると、少し離れた場所からタティが遠慮がちにそう声をかけてきた。だけど僕は、笑顔でそれに応じる気分では既になくなっていた。


「いいよ、要らない」

「あ、はい……、すみません、出すぎたことを申しまして……」


タティの消沈した声を、僕は無視した。

そのまま怒った素振りで月を見上げているふりをして、僕はタティから僕に歩み寄って来ることを待ちわびていた。これが、僕の彼女に対する甘えであることは分かっていた。

僕だって、たとえば何だか腹を立てている様子の兄さんに近づいたり、声をかけるだけでも相当の勇気がいるということは分かっているくせに、僕は彼女にその勇気と譲歩と問題の解決の責任を一度に要求していたわけだ。

さもなければ、この気まずい空気が延々と続いていくことを彼女のせいだと言わんばかりの態度を続ける気でさえいた。

本当はこんなことがしたいわけじゃないのに、僕はどうして自分が意地を張っているのかさえ分からないまま、聞き分けの悪い男の振る舞いを続けていた。

本当は、こうすればいいことは分かっていたんだ。今すぐどうしてそんなにびくびくしているのかをタティにたずねて、彼女を非難したりしないで、恐がらせないように優しく話して一緒にその問題を分かち合えばいいということは。

それでなくてもタティがつまらない理由でおどおどするのはしょっちゅうあることなんだから、そんなことは、何も僕がむきになるほどのことじゃない。何をそんなに恐がっているのかをたずねればいいだけなんだ。

恐らく彼女は昼間に僕がしたことを過剰に恐がっているんだろうが、まっとうな家庭で育った娘なら、恋人でもない男に抱きしめられたりしたなら、差異はあってもこんな反応をすることくらいまったく普通のことなんだろう。よく考えてみたら、遊び慣れた兄さんやその仲間たちが集まるパーティーなんかにやって来るそれなりに勇敢な女性たちとは違って、普通の一般的な年頃の女性っていうのは、きっとみんなこのくらい臆病で内気なものに違いないんだ。

だから僕が今すべきことは、こんなふうに意地を張ることじゃなくて、親切でおおらかな態度でこの馬鹿馬鹿しい誤解を解くということなんだ。

僕が安全で信用できる男であることをタティに話して、それから昼間のことを素直に謝ればいい。そうすれば、タティはきっと僕の言うことを分かってくれるはずだし、機嫌だって直してくれるだろう。簡単なことだ。分かっている。そうとも、頭の中ではよく分かっているんだ。

……それなのに、実際の僕というのは何かとても面倒な心の動きによって身動きが取れなくなってしまって、結局はただ黙って、タティに対して終始意地を張り続けているだけだった。

やがて背中のほうで、パタン、という扉の閉まる音がして、僕はタティが部屋を立ち去ってしまったことを知った。

子供の頃はともかく、何年か前からタティは僕の私室とは完全に別の一室で暮らしているので、自分の部屋に帰ってしまったのだろう。


「……何だい、お休みなさいもなしなのか。

タティは僕が甘いと思って、僕のことを軽く見ているんだろうな。兄さんになら、間違ったってあんな態度なんか取らないくせに……。

でも、僕だって男なんだ。あんまり無礼なことをしていたら、もしかしたら押し倒すことだって、あるかもしれないんだからな」


僕は取り残された情けなさを強がるために一人悪態をつき、それから頭を振った。

そして思った、僕は心のどこかで、自分が少なくとも世の中の若い男たちよりは細やかな思いやりや、丁寧な気遣いを持っているという自負心があったけど、でもそれはとんでもない間違いであったことを。

事実、こういうときの僕は自分が思っていたよりも、確かにずっと意地悪で嫌な人間なのだ。


「……お、お休みなさいませ……」


その上、背後でタティの声がしたことに驚きすぎて、もう少しで粗相をしそうになるほどの小心者なんだ。


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