第139話 涙の物語(4)
兄さんとアレクシスは伯爵である父上によって近い将来結婚することを許され、幾つかの小さな問題はあったにしても、そのまま幸福な時間が流れて行くかに思えた。
産後のアレクシスは僕のことを抱けないほど弱っていたが、僕は非常に健康な赤ん坊だったようだった。
揺りかごの中にいる赤ん坊の僕をつついて、ルイーズがにやけている姿が見えた。自分で言うのも何だが、まるまるした色つやのいい赤ん坊だと思った。
「やだ、可愛い。私のことじっと見てるのよ。これが運命の恋だったりしてね」
先刻無理やりルイーズを襲おうとした出来事の後では、何とも気まずい気持ちにさせてくれる言葉を記憶の中の子供のルイーズが言っていた。
ルイーズは乳児の僕に向かって言った。
「でも私のこと、叔母さんなんて呼ばせないわよ。ねえギルバート様、どうにかこの子のお姉さんのふりはできないかしら。
そうだわ、赤ちゃんにお名前はなんてつけるのですか?」
ルイーズが彼女の後方にいる兄さんを振り返ると、兄さんは非常に困惑した顔をしていた。
彼は僕がいる揺りかごを遠巻きにするばかりで近寄ろうとせず、とにかくひたすら混乱しているという様子が伝わって来た。
「信じられん、赤ん坊というのはこうもあっさり出来るものなのか? 父上の話によると、私はかなり大変なことのように考えていたのだが……」
やがて絞り出すような声で、兄さんが言った。
ルイーズは肩を竦めた。
「いつもの強気はどうしたのですか? こんなに小さな赤ちゃん相手に、態度が変よ」
「煩い、考えてもみろ、この……、おい、そいつは私を何だと思っていると思う」
「さあ、どうかしら。赤ちゃんって、お母さんのことはすごくよく分かるって言うけど……、言われてみれば、お父さんのことってどうなのかしらね。どうやって分かるのかしら」
「何でもいいが、私がそいつの父親であることを、そいつにきっちり刷り込ませたい。この社会の秩序というものを分からせるのだ。こういうことは、最初が肝心だ。私は父親として、その小さい奴に、断じてなめられるわけにはいかん」
「刷り込ませるって……、動物じゃないんですから……。
そうね、まずお母さんかそうじゃないかを判断するのは、おっぱいをくれる人か、そうじゃないかだと思うんだけど。ギルバート様、あげてみたら?」
「そんなことを私に期待されても困る!」
どう見てもルイーズは兄さんをからかったのだが、そのときの兄さんに余裕はなく、彼は大真面目に答えた。
ルイーズは理解するように何度か頷いた。
「ギルバート様が若いから、呪いが弱くてよかったと母様は言ってたわ。でも、十二歳しか違わないから、この赤ちゃんはまるで兄様みたいな人が父様なのね。
若いうちに子供を作るとアディンセル家の業っていうのを軽くするのに有効だとすると、彼も十二歳になったら子供を作るのかしら? でもそうするとギルバート様は二十四歳でお祖父さんになっちゃうわね」
「くだらん心配をするな。馬鹿馬鹿しい。
しかしそいつをどうするかというのは、今後の課題だな。いったいどうすればいいか私には皆目分からん。言葉も通じなければ……、一人で食事も取れない。いろいろ手間のかかる生物のようだ」
「生物って。ギルバート様の赤ちゃんよ」
「分かっている。……アレクシスが死ななかったから笑い話にもなるが、私自身が子供だというのに、文字通り子供が子供を持ってしまった……」
「あら、うふふ、貴方のジョークにしては面白いわ。でもよく聞く言葉ですけど。
それで、お名前はどうするの?」
「ルイーズ、私は冗談を言っているわけじゃまったくないぞ……。
そうだな、名前については父上にもご相談を申し上げたのだが、ファーストネームは私の好きにしていいということになった。だから、そいつはアレックスだ。アレックス・ギルバート・パリス。呼びやすいな」
兄さんは悦に入ったように笑った。
「アレックス? そんな、安易すぎですよ。一人息子なのに」
「いい。呼びやすいから……」
「本当にそうかしら? 本当に?」
「……、ああ、そうだよ、アレクシスとおそろいだからさ! 私とアレクシスの名前が並ぶからだよ! もういいだろ? 恥ずかしいんだよ、このての話題は」
兄さんが、やや頬を赤くして声を大きくすると、ルイーズはいっそう楽しげな声で笑った。この頃の兄さんは、子供であるのだから当然なのだが僕が知っている兄さんよりも幾らか子供っぽく、陽気で、表情はずっと明るかった。
そうだ、僕がとにかく何に驚いたかと言ったら、兄さんが今からは考えられないくらい表情が豊かで、しかも明るいということだったのだ。貴族の子弟を従えているときも、アレクシスの傍にいるときも、彼はいつも、まるで別人みたいに生き生きしていた。
勿論カイトのように無駄にしゃべって煩くするわけではないのだが、常に周りを明るくする雰囲気とか、特に照れて慌てているときの様子なんかは、思い出してみるとこれは確かにカイトに通じるものがあったかもしれないと思った。
「あーあ、ほんと姉さんにぞっこんなんだから。イヤになっちゃう。でもそんなの嫌ですよね、アレックス様? あら…、この子笑ったわ。気に入ったのかしら。それとも私へのお愛想? 彼って意外とチャラチャラした女たらしになるかも」
「おい、馬鹿を言うな、この私の息子に限ってそれはない」
兄さんは澄まして言った。
ルイーズはそれを見て呆れた。
「どうかしら、貴方は女たらしの素質、結構あると思うけど。実際手が早くていらっしゃるし。
ねえ、赤ちゃんがどうやって出来るか、ギルバート様はもうご存知だったのね。私、母様に聞いてびっくりしたわ」
「あ? ああ……」
「大きくなったアレクシスのお腹をいつナイフで切り裂くのかと思って、ベッドの横ですっごく心配していたらね、まさかあんな」
「ルル」
「瞳の色は私と同じね。そう言えば、この子に乳母をつけないっていうのは本当ですか? アレクシスが自分で赤ちゃんの面倒をみたいっていうのを、お許しになるって」
「ああ、そうだ。私のせいで、アレクシスは一人しか子供を持てないから……身近に置いてやりたい。今は乳をやらねばならんから産後の女を見繕ったが……、それにそいつはどうせ魔術師をつけなくても呪術を弾けるくらい魔力があるらしいからな、当面はティファニーとおまえで護ってやってくれ。専用の魔術師はそれなりに成長してから選んでも遅くはないだろう。
とにかく乳母やその子供がうろついていたのでは、人見知りのアレクシスの邪魔になる。身体が弱っているというのに他人がでしゃばるのでは、アレクシスのためにならんからな。
私はアレクシスの居心地のいいようにしてやりたいのだ。アレクシスは人形遊びが好きだから、そいつを存分に独占もしたいだろうしな」
「そいつって。ちゃんとお名前で呼んであげたら?」
「そのチビのことだ。分かるだろう」
「アレックス・ギルバート・パリスちゃんよ」
「まったくおまえは、口の減らない奴だ。可愛げのない。少しはアレクシスを見習え」
「せっかくアレックスって名づけるんだもの、呼んであげたらいいのに」
「煩い。いいんだよ、男は厳しく躾けねばならん。乳飲み子だからとて甘い顔はできん」
「うふふ、照れちゃって。アレックスちゃんの魔力が強いのは、うちの家系に似たんだわ。将来私が貴方の魔法の先生になってあげまちゅからね!」




