第138話 涙の物語(3)
それから季節がひとつ過ぎ去った頃、兄さんとアレクシスの仲が、深まったことが問題になっていた。
年老いてはいるが、身体の大きな父上の姿が見えた。父上は、ルイーズとアレクシスの母親である兄さんの乳母と、その問題について長い時間話し合っていた。お懐かしい父上のお元気だった頃の姿が見えて、僕は泣きそうになった。
テーブルを挟んで父上と向かい合う姉妹の母親は美しかったが、姉妹ほど美貌というわけではなかった。潔癖なほど身なりを整えていて、いかにも厳格そうな教師風の女性だった。
何かの催しなんかの際、僕も何度かは会ったことがある人物なのだが、彼女が随分若いので、僕は歳月の経過というものの奇妙さを今まさに体感しているところだった。
先刻の老魔術師、僕は彼とは一度も会ったことがない……、父上もそうだが、ルイーズの記憶の中には、今では死んでしまっている多くの人たちが、今では何処にも存在していないはずの消え去った懐かしい人々が、古い召使い、名もない昔の衛兵たち、父上の周囲に仕えていた前世代の貴族たち……、誰もが実に生き生きと存在していた。これは今から二十年前、僕がまだこの世に生まれて来る以前の風景なのだ。そして兄さんの乳母は名前をティファニーと言った。
当時の彼女は今より若くて、二十代後半から、三十歳くらいのようだった。僕の目から見ても十分に魅力的だった。兄さんの乳母である彼女は高い教養を備えた才女であり、兄さんの教師の一人でもあるはずだった。そのときは、何よりもアレクシスのお腹に子供が出来たことを問題にしているようだった。
この場にはルイーズがいないのに、どうしてこの場面が僕の心に展開されているのだろうと不思議に思って部屋を見まわすと、ルイーズは例の千里眼の魔法ではなく、ドアの隙間から直接盗み聞きをしていることに僕は気がついた。見るからに子供じみた行動だが、彼女はどうやら僕が思っていたよりもずっとやんちゃで行動力のあるお嬢さんだったようだった。
「歴史は繰り返すと申しますが……、閣下、わたくしはこのようなことになってしまったことを……、小娘だったわたくしの過ちが、また……」
ティファニーは陰鬱な表情で、慙愧に堪えないという言葉を父上に繰り返していた。要は兄さんがアレクシスに手を出し、アレクシスを妊娠させてしまったということなのだ。
僕が十一歳のとき、そんなことを思いつく頭があったかどうかすら怪しかったというのに、何という早熟ぶりかと思うが、兄さんらしいと言えばらしいことだった。
しかしこれは、どう考えても兄さんのほうからアレクシスに迫ったに違いないのだが、こういう場合、悪者にされるのはいつでも身分の低い人間だ。ましてアレクシスは年上なので、責めは免れ得ない……、母親としては、娘が主人をたぶらかし、婚前交渉を行うような淫乱扱いされてしまうことを恐れているのだろう。ティファニーはしきりに謝罪を口にしていたが、そのことを悔やんで、目に涙さえ浮かべていた。
「血は争えないと、どうぞお笑いになってください伯爵様。あの日、貞潔を軽んじたわたくしの罪が――、何よりも消し去りたい過去だったのに……、わたくしの娘の一人に受け継がれてしまったのです……」
ティファニーは傍目にも分かるほど絶望していた。
しかし父上の反応は、ティファニーが恐れているであろうものとは違っていた。
父上は終始、優しくこの若い母親をなだめるだけだった。
「ティファニー、そう自分を恥じてはいけない。貴方もアレクシスも、何ひとつ悪かったことなどないのだから。私はそれをよく分かっている。アレクシスが誘惑したのではないことも、私はよく承知している。
ギルバートは……、素晴らしいリーダーシップと意志の強さの半面、他者の感情に無頓着なところがある。あれはこのバランスを学ぶ必要がある子供なのだ……、己が好意を寄せるアレクシスを取り上げられてはなるまいと、あれなりに先手を打ったつもりなのかもしれん。ルイーズを正魔術師としたことで、アレクシスはいずれ時期を見て縁談を結ばせる話を、何処かから聞きつけたのかもしれぬ。
それにしてもいったい誰に似たものか、あやつの負けず嫌いにも困ったものだが……」
そして話し合いは、兄さんとアレクシスがお互い愛情を持っていることもあり、最終的に結婚を許そうという方向で決着したようだった。
使用人と結婚ということはあまり外聞がよくないことと、兄さんがあまりに若すぎるので、体裁のためにもう何年かは正式な婚姻という形を取ることはできないことを父上がおっしゃり、兄さんの乳母は恭順を尽くした態度でそれを了解していた。
父上は、一存で抹殺することもできる僕のことを、始末しろなどということをとうとう一言もおっしゃらなかった。話し合いのほとんどは、授かった大切な生命をいかにして生かしていくか、件のアディンセル家に纏わる業の話と、そして母体の維持に関する話し合いだったのだ。
父上は、まだ胎児だった僕に深い愛情を持ってくださっているようだった。思い描いていた通りの、温和でお優しい父上のお姿だった。彼が生きていて、話をして、ときどき浮かべるその微笑みを、僕はできるだけ胸に刻み込もうと父上のお顔をみつめていた。
たとえ僕が彼の記憶を持たなくても、彼はこうして確かに存在していて、兄さんや僕を深く愛してくださっていた―――、そのことを思うだけで、僕は何度も涙ににじむ目をこすらなければならなかった。
そしてまた場面が変わり、ある冬の朝に僕が生まれたということが分かった。
アレクシスが妊娠したことは、ごく限られた人間の間にしか知らされていなかったことで、ましてや兄さんの子供であるということは、厳重な秘密によって守られていたことだとルイーズが僕の耳元で教えてくれた。
その朝報せを受けた兄さんは浮き足立ち、出産準備と療養のために実家に帰っていたアレクシスのもとに、ルイーズをともなって飛んで行った。
アディンセル家の子供を身ごもったアレクシスは、十月十日の間必死で闘い続け、何度も死にかけることがあったようだった。しかし彼女の母親や、父上の魔術師が総力をあわせ、その助けを得てどうにか生命を落とすには至らなかったことを兄さんは知らされていた。
「二度はない、分かってる……、私はアレクシスを死なせるつもりはなかった」
神妙な面持ちで、兄さんはティファニーと話していた。
「子供は男子か、父上がお喜びになるだろう……、ここはでかしたと言ってやるべきなのだろうな。
だが、子供が生まれたということは、私には何も実感がないことだ。今はとにかくアレクシスが死なないでくれたことが嬉しい。
もう妊娠はさせない。アレクシスを失いたくないから……、これからは彼女をより大事に扱って、無理をさせないようにし、とにかくアレクシスを大切にすることを約束する。
性交渉を持たなければ、傍に置いても、アレクシスが弱ることはないんだな?」




