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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第10章 涙の物語
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第137話 涙の物語(2)

「アレクシス、私は……、ああ、どう言ったらいいのか分からないな」


そよ風に乗って、微かな兄さんの囁き声がしていた。

見ると、ルイーズは黒板のある部屋の中で魔術の勉強をさせられていた。教室には年老いた教師と、生徒であるルイーズの二人きり。黒板には、白いチョークで魔法陣が幾つか描かれていた。床には分厚い魔術書が積み重ねられていて、黒板を取り囲むように居並ぶイーゼルにも魔法陣。いったい何の魔法かは僕には分からないが、あれが精霊文字だということだけは理解できた。

これはどうやら生まれついて魔力が強く、才能の高いルイーズのための特別授業のようだった。アディンセル伯爵領において代々魔術師を輩出しているカティス家の紋章入りの上着を着た、恐らく先代当主と思われる老人が、わざわざルイーズのためだけに出張授業をしているその光景のようだ。


「参りましたね、なんと素晴らしいことでしょう」


感動に打ち震えているという態度で、老魔術師はルイーズに微笑みかけた。


「ルイーズ、貴方ときたら、お教えした魔法という魔法を、あっと言う間にマスターしてしまうのですから素晴らしい。

通常は、魔法を一度見ただけでそれを解析なんてできないのですよ。じっくり本を読み、噛み砕いて、呪文を理解し、魔法を深く理解しないことにはね。

それなのにルイーズ、君ときたら、見ただけで! 見ただけでこの老人がお教えした魔法を次々再現できてしまう。感覚の次元で魔法に触れているのでしょうが、こんなに素晴らしい才能があるでしょうか?

君は本当に天才なのでしょう。君は魔法使いになるために、大きな使命を持って、この時代に生まれていらしたお嬢さんに違いないのです。貴方はとてもじゃないが、儂のような者に教えられる生徒じゃない。優秀すぎて。儂が教わりたいくらいなんだ」


白髭の老人は、明るい口調と笑顔で、少々興奮した様子でルイーズを褒めちぎっていた。


「先生、それならどうして私だけ余計に勉強しなければならないのですか?」


しかし褒められたルイーズは椅子に座ったまま、不満そうに唇を尖らせていた。長い金髪を、そのときは可愛い髪飾りを巻き込んだみつあみにして、背中に垂らしていた。


「姉さんだって、ギルバート様の魔術師なんですよ。なのにいつもいつも私だけ集中講義。いろんな先生が、入れ替わり立ち替わり」

「それは君が優秀だからに他なりません。君のような魔術師を従えることは、将来のアディンセル家の当主様にとって、非常に利益になることでしょう。ですから儂がこうして特別授業を。でもアレクシスはそうじゃない」

「そんなことありません。姉さんは私なんかよりずっと……」

「いいえルイーズ、残念ですが君のお姉さんは、魔法使いとしてはそれほど優れた方ではないのです。血筋はいいのでしょうが……、君とは違う。

それに引き換えルイーズ、貴方は期待の星です。貴方にはあふれんばかりの才能があり、しかも、とても心の強い女の子です。儂が知っているほとんどの魔術師よりも筋がいい。許されるなら、是非とも我が息子と縁組させたいほどです」


それからも教師の絶賛は続いていたが、ルイーズの気持ちは浮かないようだった。

彼女の耳には、教師の賛美よりは別の会話が鳴り響いているようだった。ルイーズは憂鬱に息を吐き、やがてカンニングでもするようにこっそり呪文を呟いた。すると彼女の意識は風になって空間を飛び、瞬時にその会話の発生源に辿り着いた。


「アレクシス、……一生おまえを大切にすると言ったらどうする?」


光になってルイーズが飛び込んだのは居城内の見慣れた庭園だった。これが千里眼の魔法というやつなのだろうか、あの美しい庭園の中で、兄さんとアレクシスが、二人で過ごしている睦まじい姿やその会話までを、僕もルイーズと同じように、間近で観ているかのように知ることができた。


「将来のことだ。私と結婚してくれ」


兄さんはアレクシスの目を見て、きっぱり言った。


「えっ…?」

「断るか? 私たち二人の将来の話だ。私は真面目な話をしている」


兄さんが真剣な顔をしてアレクシスの顔を覗き込むと、アレクシスは恥じらって、それから当惑したように兄さんを見た。長い金髪が風に揺れ、彼女のブルーグレイの瞳は恋しさと不安に揺らいでいた。


「でも、ギルバート様……、わたしは、貴方の魔術師です……。

それに出来が悪くて、頑張っても思うようにできない、駄目な魔法使いなんです……。

誰にも期待されていないし、ルイーズの足ばかり引っ張ってしまって、役立たずなんです……」

「アレクシス。そんなことは、私の妻になる条件にとって何の関係もないことだ。

駄目な魔法使い? 結構じゃないか、私はおまえには私の妻になって貰いたい。魔術師なんてものは、ルイーズひとりもいれば十分なのだからね。あいつに任せておいたらいい」


兄さんは、庭園の木陰でアレクシスの手を握った。


「でも……」

「アレクシス、私を好きか?」


兄さんはまっすぐアレクシスを見た。

アレクシスは頬をふんわりと染め、遠慮がちに頷いた。

兄さんは安心したように微笑った。


「私もだよ。ならば約束してくれ、将来、私の妻になることを。私はまだ若いが、必ずおまえのいい夫になると約束する。

しかし不本意ながら、アレクシスは私より年が上だからな……、だからこの辺りのことは、今のうちにきっちり約束しておきたい。妙な男がおまえに目をつけては困るから」

「ギルバート様、でも、わたしでは、貴方の妻になるには身分が不確かです。

ギルバート様には、いいお家のきちんとしたお姫様が相応しいって、皆そう言っています……」


アレクシスが深刻な顔をして言うと、兄さんはそんなことは大したことではないというように明るく笑い飛ばした。


「他人の意見なんかどうでもいいだろう。アディンセル家の男子たる私が、おまえがいいと言っているのだから、それがすべてだよ。

アレクシス、これはそう不安な顔をしなくてもいいことだ。それとも私の気持ちが信じられないか?」

「ギルバート様……、いいえ、わたしはいつだって貴方を信じています」

「だったら、そこは笑顔で信じられると答えねばならんところだろう?

まったくアレクシス、おまえは可愛くて……、危なっかしくて……、本当に困った奴だ。しかしもっと困ったことは、私はおまえに何より弱いってことだよ。

いったいどうしたら私のこの気持ちをおまえに分かって貰えるのだろう。うん……、そうだな、そんなに不安なら、手っ取り早くいい方法がないこともないが……。

アレクシス、おまえには近いうち指輪を贈ろう。それを二人の約束の証に。

確か、誕生石はムーンストーンだったね?」






手を繋いで幸せに微笑みあう兄さんとアレクシスの姿が、吹き上がる風が上空にのぼって行くように、やがて徐々に視界から遠ざかって行った。

気がつくと黒板前の椅子に座って、ため息を吐いているルイーズが見えた。

でも彼女はすぐに唇を微笑みの形にして、教師に言った。


「先生、これも人生……、そうなのですね。

何より愛しいギルバート様と姉さんを、私が生涯魔法で護るの……、これが私の役まわり」


老魔術師は飄々と頷いた。


「ええ、そうですとも。しかしそれも、きっと悪くない。儂はそう思いますよ。

人間には、運命というものには……、各々にひとつずつ、用意された役割というものがあるのです」


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