第131話 生命の番人
そして深夜の居城内を独り歩いた。途方もなく長い冬の廊下を。
だがこの酷い気分を彩るには、僕の住まいはあまりにも華やかではあった。行く先には色彩があふれ、真夜中であるために使用人たちの笑い声はしないが、今にも音楽が流れて来そうな美しい光景が広がっている。静寂の夜の中に、女性でも連れて歩いたらさぞかしロマンチックだろうという体裁は十分だった。
だがそれすらも今の僕には怒りの理由となる。財力のある貴族の城には無駄なものが多すぎるのだ。廊下の金の燭台からは赤い光がこぼれ、夜中でも過剰なほどの灯りが途切れることがない、だけど僕にとっては暗い夜道を歩いているも同じだった。
僕は兄であるアディンセル伯爵の殺害を決意し、彼を確実に一発で仕留め得るだけの武器を手にしていた。
父系重視の我が国では、父親殺しは首を刎ねられ家系断絶の大罪なのだが、兄殺しの場合はどうだったろうかと考え、それからそんなことはどうでもいいと思い直した。何故なら、兄さんを地獄へ送ってやった後に、僕はこの銃を使って自分も死んでやるつもりでいたからだ。
アディンセル伯爵家の領地は遠縁の誰かの手に渡るのか、それともウィスラーナ侯爵家のように一度国家に召し上げられた後、まったく別の一族の手に渡るのか、それは僕には分からないけれどもそんなことはどうでもよかった。
僕はただ、自分をこの世から消してしまいたかったのだ。しかしその前に、是非とも成し遂げておかなければならないことがあるので、こうして屍のようになって廊下を歩いているのだ。
シェア――、貴方も兄さんに消された哀れな女の一人だったのでしょう。
純粋に兄さんを愛したばかりに、あの悪魔の本性も知らず、あの男の綺麗な顔と偽りの愛の言葉だけが彼の真実だと騙されて、ささやかな未来を求めたばかりに。
一時の肉体関係だけが目的だったなんて知らされたときの、シェアの悲しみはどれほどのものだっただろう。綺麗な金色の髪を震わせて、か弱い彼女はどんなに泣いたことだろう。
それでも邪魔にされて捨てられることを、手切れ金を渡されるなんてことで納得できはしないほど、貴方はきっと清らかで高潔で、深く兄さんを愛してしまったばかりに……。
僕は今でも貴方の姿が瞼から消えない。忘れられない貴方の残像が、生涯僕につき纏うでしょう。いつか日差しの庭園、幼かった僕の視界で微笑ってくれた、甘く切ない貴方の姿が。
それなのに僕はタティも愛してしまった。僕はタティにも真剣だった。これが僕の罪業だったのかもしれない、シェアに区切りをつけられないまま、タティを愛したりしたから……。
だけど元凶はやはり兄さんなのだ。
僕はタティやシェアや、多くの女性たちの人生を弄び、殺すことさえ平然とやってきた兄さんに、その痛みを思い知らせてやらなければならなかったのだ。そしてこの世界でも最悪の災厄であるあの男を、この世から消し去ってやる義務というものが僕にはあった。
少し考えれば分かることだった。痛みを味わったのは、蔑ろにされた女性たちばかりではなく、彼女たちの家族もまた、一生忘れることのできない悲しみを味わわされてきたはずなのだ。伯爵の権限によって結婚を控えた恋人を連れ去られ、陵辱された男の悲しみはどれほどのものだったろう。大切に育ててきた娘が、見ず知らずの男の一時の性欲を満たすためだけの道具にされたことを知った父親の気分はどうだ?
兄さんの身勝手な振る舞いによって、多くの人々の人生が踏み躙られてきたということを、生まれつき地位と才能に恵まれていながら、それを与え愛してくれたお優しい父上を今もって罵倒し、タティを死に至らしめることを分かっていながら僕にあてがい、弱者の痛みというものを鑑みることもなかったあの男こそは、誰よりも思い知る必要があるのだ。
だけど情けないことに、僕は正攻法では兄さんに太刀打ちができず、夕刻の掴み合いひとつにしたって腕力そのものさえ到底勝ち目のない軟弱ぶりだった。兄さんが相手では、彼を崇拝するこの城の騎士も兵士も使えないだろう。
となると、僕が兄さんを倒すための方法としては、銃殺してやることが選択できる最善というわけだった。
兄さんの私室前に行くと、騎士が二名詰めていた。城内でも、最も厳重な立ち入り制限のある区域において、更に寝ずの番を置いているわけだ。これは州領主という立場だからなのだが、そのときの僕は率直にこう思った。人に恨まれるようなことばかりしているからだ、この臆病者め。
射撃訓練は数えるほどしかしたことはなかったが、寝込んで静止している男の頭を打ち抜いてやるくらいの腕はあるつもりだった。でも勿論無関係の人間を犠牲にしたくはなかったので、僕は拳銃を懐に隠したまま当直騎士たちに近寄って、居城の敷地を十周して来るように言いつけた。
けれども僕の様子に異変を感じたのか、彼らはまごまごして、いつまでも応じようとしなかった。やがて業を煮やした僕は、不本意ながら命令に従わないと家族を処刑すると言った。兄さんとまったく同じやり方なのが腹の中では噴飯ものだった。ところが騎士たちは首を傾げながら更にまごまごしていつまでも従わないので、僕は自分の権威をこんな連中にさえ馬鹿にされているのかと感じて頭に血がのぼった。
兄さんという後ろ盾がなければ、所詮僕なんていうのは誰からも尊敬も尊重もされない、恐れる必要さえない他愛ない存在なのかと爆発し、衝動のまま僕は彼らの足下に一発、銃を発砲した。
夜の静寂の中に、思った以上に銃声が響いた。
騎士たちは青ざめ、辺りに火薬の匂いが立ち込めた。僕も幾らか我に返り、僕はこれによって兄さんが起きてしまったかもしれないことを苦慮した。あいつが扉を出て来た瞬間に撃ち殺さなければ、また掴み合いになって銃を取り上げられかねないことを頭の中で想定した。
そこへ、窓から差し込む月光の影から突如ルイーズが現れた。彼女は兄さんの生命を守護する番人だから、僕としてもそろそろ現れるのではないかと思っていたところだった。
彼女は魔女もさながらの服装と物腰で、いつものように妖しく微笑んで言った。
「こんばんは」
「……」
「今夜は随分、恐いお顔をしていらっしゃるのね」
僕は容赦なく銃口をルイーズに向けて言った。
「近寄るな。ルイーズ、おまえ、こいつらを退かせろ。この気の利かない騎士たちを」
「アレックス様……、ねえ、どうぞそれをしまってくださいません?」
「嫌だ」
「あら、困った方。でもどうせ私には当たりませんのよ。そんなことで立場のある方の魔術師が葬り去られることがあってはならないので、常に風の上級精霊を纏っていますから。弓矢も銃弾も弾きます。
ねえ、そんなおいたをしては駄目よアレックス様。貴方にそんなことは似合わない。それを私に預けて頂けないかしら」
「命令だ。こいつらを退去させろ」
「それはできない相談だわ。私と彼らとでは指揮系統が違うんですもの。
それにそもそも貴方が命令して動かない者が、私の命令で動くはずはないでしょう?
当主のお部屋を、何があっても死守するのがこの方たちのお役目ですの。尊敬、愛情、恐怖……ギルバート様はいろいろな意味で人心を掌握するのがお上手なのよ。だから、誰が何を言っても退かないわ。
ねえ、ギルバート様のお生命のほうが、貴方のそれよりもずっと重たいのよ。
貴方は所詮、ギルバート様のスペアなんですもの。ご自分でも、その点は分かっていらっしゃるんでしょう?」
ルイーズは、僕のほうが兄さんよりも価値がないと、神経を逆なですることを平然と言っていた。
この女の生意気さがその晩は特に神経に障り、兄さんもろとも殺してやろうかと思わないでもなかったのだが、どう考えても騎士とは武器も持っていない女を銃殺するものじゃない。
僕が顔を歪めると、彼女は笑った。
「でも、どうやら貴方も切羽詰っていらっしゃるみたい。いいわ、私がギルバート様に代わって、お話をお聞きしましょう。どうぞ私のお部屋にいらっしゃって」
ルイーズはそう言うと、僕に指先を向け、魔法で強制的に僕のことを別の空間に連れ去った。




