第130話 護れなかった幼い恋
兄さんによって無様に床に転がされた後、大人ぶって正論を唱えるカイトの制止を振り払い、タティが閉じ込められている離宮に行った。
誰ひとりとして僕らの愛を認めようとしない悪夢のような現実に見切りをつけ、この手でタティを連れ出そうと考えたのだ。
タティを暗い牢獄から助け出し、愛しい彼女の手を取って、もう兄さんの目の届かない外国へ、それこそ空の上の天の王国にでも逃げて行くつもりだった。
サンメープル城内の端にある池に囲まれた装飾の美しい小さな屋敷は、その建築様式が古く、小さな宮殿を思わせた。かつて僕の母上がお暮しになっていた場所だ。これは当然ながら病人の隔離施設として建設されたものではない。用途は知らないが、ずっと昔の伯爵が、愛人を囲うために作ったなんて話が残っていたりする建物だった。
春には花に満たされて、お伽話のお姫様が住んでいるような、そんな風情にもなるのだが、僕が駆けつけたときには何とも鬱陶しいことになっていて僕は気分を害した。
兄さんの命令を帯びた数十名もの騎士たちが門番のように立ちはだかって、僕を離宮の敷地にさえ立ち入らせてくれなかったのだ。美しい庭園のような離宮に、薄汚い男どもがわんさか踏み入り張りついていたわけだ。
下級貴族の娘を一人守るにしては、あまりにも馬鹿げた人数構成だった。アディンセル伯はいつだって頭が切れるのだが、僕を苛めることに関しては天才的だ。信じられないことに、兄さんは僕が採るであろう行動を予見して、このためだけに専用の部隊を組んだのだ。
二階建ての建物の窓に向かってタティの名前を叫んだが、閉ざされた窓辺に人影が現れることはなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか、僕にはもう、どうしていいのかさえ分からなかった。僕の人生は、何もかもを僕が思い通りにできるはずなのに、実際には兄さんの影響力があまりにも強すぎた。どの場面でも彼の意思こそが優先され、反映されて、僕には好きな人の傍に寄り添うことさえ許されない。
「そうだよ、あいつのせいだ……」
僕は努めて冷静であろうとしていたが、世間では温厚で通っている僕という男にだって、我慢には限界というものがある。
僕は最後まで手にしていた医学書をとうとう投げ出し、深夜のリビングの闇の中で、タティがお気に入りだった暖炉の前に蹲って、あの悪魔への憎しみを募らせた。
「何もかもあいつのせいでこうなった」
憤りを殺すために絨毯を何十回と引っ掻いたせいか、爪が傷んで血が出ていた。
「あいつが、タティを虫けらのように考えたせいでっ……!」
窓の外には月が輝いていた。淡い色合いをした優しい月が。
それをしばらく眺めていると、僕はタティのことを思い出した。小さい頃からいつも身近にいて、何をするにも一緒だった彼女のこと。顔に合わないような大きな眼鏡をしている幼い頃のタティの姿が、僕の心に甦った。
子供の頃から僕らはとても気が合って、お菓子作りが大好きだったが、それだってお飯事をしているとき、実際に食べられる料理を作ったらもっと楽しいだろうという話になったのだ。僕らはとても向上心のある料理人だった。裁縫を始めたのだって、人形で遊んでいたら、仲間たちの服を作りたくなったのだ。僕らはいつだって優れたアーティストだった。
でも僕はときどきタティと仲よしじゃない気分のときもあった。タティが嫌がるのを分かっていて、虫をタティの手に乗せて彼女をからかうのは密かにお気に入りだった。てのひらに乗った虫のことを、タティが怖がったり悲鳴を上げるのを見て、幼い僕は自分が強い者であるように錯覚することができたからだ。タティは素直だからいつも僕に言われるまま手を出していた。子供の僕は、タティが過剰に反応してくれることが嬉しかったのだ。
でもあれは、今から思えば苛めだった。だからヴァレリアのことは、たぶん僕には言えないだろう。
それからタティに指輪をあげたり、初めてキスした日のことを思い出して、僕は耐え切れずに大泣きをした。
あのとき僕は、彼女をどんなに愛しいと思ったか、彼女と心を通わせたことがどれほど特別で、重要で、尊いことだったか。タティを一生大切にしたいと思ったあの日の気持ちが、タティが死んでしまうという状況になるまで思い出せなかった自分の馬鹿さ加減が許せなかった。
僕はそれまで、きっと自分は女性を大事にする男だと思っていたが、実際に女性と係わりを持つようになってみると意外とそうではなく、いつも泣かせるようなことばかりを繰り返していた。
僕はただ、タティを大事にしていればよかったのだ……、馬鹿をやっていないで、彼女が好きだと気がついた夏の終わりに、さっさとそれを伝える勇気が僕にあったら。男子を上げろなんて酷い条件をつけられなくともいいだけの、兄さんに敢然と立ち向かい結婚を認めさせるだけの男としての中身があったら。せめてアディンセル家に付随する問題に早くから気づける機微があれば。
タティを失ってしまったら、僕はきっと生きてはいられないだろう。
何故なら彼女は僕の人生のすべてだった。僕のこれまでの人生のすべての場面に、タティがいないことなんて一度だってなかったのだ。だって生まれたときから、最初から僕らは一緒にいたのだ。これがどれほど途方もない確率の奇跡であるか、どれほどの恩寵だったか、僕はそれを失うことが分かってからようやく気がついて頭を抱え込んだ。
月光の差し込む深夜、僕は泣きながら膝を抱え、頭を掻き毟った。
すべては僕がいけないんじゃないかと、認めてしまうことが恐かった。
もし僕がエステルと寝たり、マリーシアに気持ちを奪われたりしなかったなら、もっと誠実にタティにだけ向き合ってさえいたなら、こんな酷い出来事が降りかかるなんてことを、回避することもできたかもしれない。
本当なら、タティは只の風邪というだけで収まっていたかもしれないと思うと……、運命論者たちはこれも神がお決めになったことだと口を揃えるかもしれないが、僕は運命というものに人間の行いや徳というものが関与するということを、当たり前のように信じていたからだ。
僕がもっと身を正してさえいればこんなことにはならなかったという気がしてならなかった。僕が彼女を大切にしていれば、事態はこれほど最悪な状況に転がらなかったという気がしてならなかった。それも、ばちを当てるのなら僕自身に当てるべきところを、どうしてタティが肺病に罹らなければならないのだろうか!
感情は心の中を暴れまわり、心の世界で居心地よく暮らしてきたはずの僕だったが、今は憎々しげに僕を苛む感情の正体さえも分からず、僕は翻弄され、その苦しみから逃れたい一身で這って書斎に辿り着いた。収納扉を開き、兄さんから渡された刀剣のコレクションには目もくれず、僕が掴み取ったのは拳銃だった。兄さんが雇っている鉄砲鍛冶に作らせたという楓の装飾つきの上等な銃と、それに火薬の詰まった薬莢。
剣術でも腕力でも、僕は兄さんに敵わなかったのだ。悔しいが、彼は幾つもの素晴らしい能力や才覚の持ち主で、何事においても、他人の人生を支配する能力においても、僕にとっては唯一の拠りどころである知性でさえも、結局僕は何ひとつ彼に勝てるものがなかったのだ。
だけどそんな僕でも容易に兄さんを殺してやることができるのだということを、その手段を僕は知っていた。
「あいつを殺してやる」
手の中の銃を握り締め、僕は呟いた。




