第13話 夕餉
それからずっと、僕とタティは気まずかった。
僕は、女の人に振られるという経験を味わったのはエステルに続いて二度目のことで、初めてのことじゃなかったはずなのにとてもつらくてその帰りにはあまりおしゃべりをする気にもなれなかった。
僕がシェアのことを毎日思っていることを、タティが知っているということに驚かされた反面、だったらどうなんだというやり場のない気持ちを、僕は結局口に出すことさえできなかった。
まだ陽の高い帰り道、タティは黙ってうつむいたまま、僕の少し後ろを歩いていた。
僕はときどきタティがちゃんと僕について来ているのかを確認しながら、この問題について、本当はタティと話し合いたいと思っていた。けれどもこれ以上僕らの仲がこじれてしまうのは嫌だったし、ましてや言い争いになったり、喧嘩になったりするのは嫌だったから、できればタティのほうから話を切り出してくれるのを待っていたけど彼女はとうとうそうしてはくれなかった。
ほとんど何も話をしないまま連れ立って居城の城壁のところまで戻ると、タティは着替えをすると言って僕に一礼をして、足早に鉄製の門をくぐって行ってしまった。
僕は、もうあんまりスープを作ろうなんて気分じゃなくなってしまって、持っているトマトのかごを持て余していたんだけど、健気にも城壁の内側のところで、ブルーベリーのかごを待ったまま直立しているパーシーの姿をみつけてしまうと、放り出すのも無責任な気がしたので濡れた服を着替えてから改めて厨房へ向かった。
パーシーは僕とタティの服が濡れていたことがどうも気がかりだったとみえて、それについて調理場で何度か僕に質問をしていた。せっかく心配してくれているのに邪険にするのも悪いので、最初は言葉を選んで彼に事情を説明していたが、あんまりしつこく聞いてくるのでしまいにはそれが鬱陶しくなって、僕は最後には彼を睨みつけずにはいられなかった。
「だから、小川で転んだんだ。いったい何度言ったら納得するんだよ。君、人からよくしつこい性格だって言われないか?
とにかく僕らがびしょ濡れだったのは、小川で足を滑らせたからだ。でも心配はいらないよ。怪我もないし、水も飲んではいないしね。久しぶりに水遊びをしたみたいで、楽しかったよ」
「本当ですか? それならどうして、タティ様は走って行ってしまわれたんでしょうか?
着替えをすると言ったきり、戻って来られる様子もありません。だいたい遠目からは、泣いているようにも見えましたが……」
「何だ? もしかしておまえは僕を非難しているのか?
まさか僕がタティに何かおかしなことをしたって、そう言いたいんじゃないだろうね?」
「いえ、そうは言っていません。が、俺の見ている限りそう取られても仕方ないご様子でしたよ」
「……それはどうもご親切に。
別に身分をどうこう言いたくはないけど……、君は人を苛つかせる方法を心得ているね。そのお節介ぶりには恐れ入るよ」
その夜、僕が作った野菜スープを食べてくれたのは兄さんだった。
夕食のテーブルには、せっかくだからといってジェシカも招待されていた。
通常の夕食とは別に、湯気をあげた僕の作ったスープの皿が運ばれてくると、兄さんやジェシカは喜んでそれを食べてくれたが、僕はスプーンをつける気にもならなかった。
我ながら几帳面に刻んだ何種類かの野菜が、トマト色をしたスープの中に美味しそうな輝きをもってゆらゆらと揺れているのを、僕はお腹が減っているのになかなか飼い主から食事の許可を貰えない犬のように黙ってじっと見ていた。
「何だアレックス、よくできているのに食べないのか」
「とっても美味しゅうございますよ」
「となるとジェス、これには鉛なり水銀なり入っているのかも分からんぞ」
「まあ、伯爵様、そんなご冗談を……うふふ」
兄さんの冗談は、結構つまらないものが多いというのは今に始まったことではないのだが、ジェシカや周りが甘やかすので本人には未だにそれが分からないのだろう。今も自分が何か面白いことを言ったと思って、僕の向かい側の席でジェシカと笑いあって、いい気分になっている兄さんが少し恨めしかった。
とはいえそれには関係なく、その夜僕の唇から漏れるのはため息ばかりだった。
やがて僕の浮かない顔を見た兄さんは、その切れ長の目を僕に向けてこう言った。
「タティが美少女だということに、やっと気がついたが時既に遅しといったところか」
核心を言い当てられたことに動揺して僕が顔を上げると、兄さんは呆れたような顔でこう続けた。
「せっかくいつでも手を出していいように、あの無能な娘をいつまでもおまえの側に置いてやっていたというのにな。おまえの所望を拒否するとは、さては他に男がいるのか何なのか。
しかしおまえがあれを抱きたいと言うなら、今夜にも私が言ってそうさせてやるがどうするね」
「どうして兄さんがそんなことを知っているんですか?」
「何も驚くことはない。先刻、ルイーズから報告があったのだ。私の有能な乳姉妹からな。
ルイーズの魔術が私の第三の眼となっていることを忘れたか? 私はこの居城や、私が所有するすべての城や邸、他にも要所に起こったあらゆることをこの場に居ながらにして知ることができる」
「そんなのやめてよ……、これ以上タティに嫌われたら困るんだ」
「女の機嫌などおまえの知ったことではないだろう。そもそもあれは、武官の才があるわけでも、魔術に通じているわけでもない只の女だ。おまえの妾にするために飼っておいたような女なのだぞ。無理やり抱いてしまえばいいのだ。
一度抱いてしまったなら、その後は女など容易いもの。すべてはこちらのものだ。
それとも身柄を買い上げて、逃げられないようにしてやるか」
「兄さん、お願いだから余計なことはしないで」
「アレックス、まったくおまえは何たる弱気だ。たかだか小娘相手に……。
それにしてもおまえも少々疎すぎたな。おまえの退官した乳母は、あれはなかなか美人であったろう。となればその娘の容姿くらい、容易に推定できるだろうに」
僕は、兄さんと話しているとときどき頭がおかしくなりそうになった。それとも領主とはこのくらいでなければいけないものなのかもしれないけど、それでも僕には今のところ、兄さんとこうした価値観を共有することはできそうになかった。
「兄さん、お言葉ですが、普通の人間が自分の母親代わりの人の品定めなんか、するわけないじゃないか。
僕は兄さんみたいに、変態じゃないんだ」
僕が苛々としてそう言うと、兄さんは少し眉の辺りを動かした。それで僕は、本人を目の前にして少し言葉が過ぎたかと思い、そっとジェシカのほうを窺うと、ジェシカも僕のその懸念を肯定するように少々気まずそうな表情で僕を見返した。
その夜の兄さんはとてもご機嫌がよかったのでうっかり油断をしていたが、僕の兄さんは大変誇り高い人物で、彼はたとえ冗談でも、それを傷つけられることを好まない。
何秒かの間、僕は非常に緊迫した状況を味わわされることになった。
けれども僕のそうした恐れは、幸いにもすぐに払拭されることになった。
兄さんが気を取り直したような顔で、それまで通りの快活な調子でこう続けたからだ。
「ふっ、この私を変態呼ばわりするとはいい度胸だなアレックス。どんなに取り澄ましていようとおまえも男である以上、多かれ少なかれ私と同質の人間ということを棚に上げて自分は聖人気取りか?
だが、まあいい。今夜の私はとても気分がいいのでな」
「そう、よかったじゃない。エステルとは上手くいっているんですか?」
図らずも口をついた言葉が嫌味であったことに後から気づき、僕はさすがに顔色を失くしたが、兄さんはそれをも鼻で笑っただけだった。
「アレックス、目上の人間に対し、そのように皮肉を言うものではない。
おまえがそのことを気に入らんのは分かるが、過ぎたことだ、もう忘れなさい。
その件に関しては、今後我々の間で話題にすることは控えようではないか。お互いにとって何もいいことはないし、いい気持ちもしない話だ。そうだな?」
「……はい、兄さん」
「……、タティと言ったな、あの乳姉妹のことが気になるなら――」
「兄さん、すみません、でもいいんです。そのことはどうか放っておいてください。
彼女が嫌がっているならもういいんだ」