第129話 悪魔のような男(3)
「ああ、そうだったアレックス。おまえにはまだ教えていなかったよ。おまえはウィスラーナ侯爵の妹姫のシエラと結婚をすることが決まっているのだ。
おまえももう西部国境のウィスラーナ侯爵に関する一連の話を知っていると思う。あそこは今から二十五年前、我がアディンセル家が出征し損ない陛下の御不興を買った因縁の土地でもあるな。
この話はフォイン王国が、その国境線を再び東に進めようと策動しているという話に発端する。フォイン王国というのは、北方コルヴァールと縁が深く、北のハイエナどもと同種の蛮族の土地というわけだが、何度撃退されようと土人に道理は通じぬ。道徳という概念のない野蛮人どもは、何でも盗み去ろうとする――、先代ウィスラーナ候は非常によく働く有能なる国境領主だったのだ。
ところが現在のウィスラーナ侯というのは、少なくとも国境防衛にとって当代きっての無能者と評判でね。フォインの斥候が国境をうろつきまわっているのに、彼はそれにろくな対処をすることもできないというわけだ。
もっとも国境を破られたわけではない。彼の指揮官能力は甚だ疑問ではあるが、前候の遺産とも言うべき側近連中はまだ何名か残っている様子だ。本来であれば取るにたらない幾つかの些細な失敗を失脚にまで繋げてしまったのは、侯爵自身の王宮における処世術のなさだったのだがね……。
代を継いだ若い侯爵が場所の規範も分からず、味方もなく、怯えて震えている場面を身につまされる者としては、哀れと思わんでもなかったが――、彼は男でありながらそれと戦わずに出仕を拒むようになってしまった。そして我らが老王陛下は何よりも軟弱な男を忌み嫌う。断じて甘い方ではないということだよ。侯爵の不幸は、己以外に男兄弟がなかったことだが……、無能な自分の代役がいなかった」
兄さんは一瞬僕に視線をやり、それから話を続けた。
「まあ、そのような経緯があり、後は当主であるロベルト候が処刑されれば、新たにこの私が当地を与る侯爵となることが決まっているのだが、ここは諸般の政治的な事情というものがあってだ、末の姫君を我がアディンセル家と縁組させる話が生じているわけだ。
本来であれば我らより格上であるはずの侯爵家の姫が、生き延びるために頭を下げて我々の軍門に下るべく汗を掻いている。間もなく後見人を失い、身分も失う零落の姫だが、当面の間は当地を治めるにあたって利用価値があると踏んだ。それに彼女の血筋のよさと美貌は、打ち捨てるには惜しいと思ってな。だからおまえは、彼女を娶って男子を産ませなさい」
「そんな、会ったこともない女と、どうして僕が……」
僕は、兄さんが何を言っているのか分からずに、兄さんの顔を見た。僕がまだ話を飲み込めていないことを理解したらしい兄さんは、こう続けた。
「会ったことならある。いきなり婚約者だと言って紹介したところで、おまえが反発して逃げまわるだろうことは分かっていたからな。馴染ませる期間が必要だと思ったのだ。
おまえの側に何ヶ月か前から、若い娘が配置されていたろう。ロビンと名乗っていたか。
ロビン・ウォーベック。それは偽名だ。ウォーベックと言うのは、母親の旧姓だったかな。本名はシエラ・ウィリアム・ウィスラーナだ。おまえの花嫁だよ。清純そうな美しい姫君だろう? 可愛がってあげなさい」
「そんなことは僕は聞いていない」
僕は怒りを超え、もはや笑いが込み上げてきていた。
「いま言った」
「僕は認めない」
「好きにしろ。だがおまえはシエラと結婚するのだ。私が決めたからな」
「違う。僕はタティと結婚するんだ」
「ははは、アレックス。それは無理というものだよ。あの小娘は我がアディンセル家に相応しくないし、それに肺病だ。だからもう、おまえは彼女に会うこともできない。アレックス、タティは死ぬんだよ。生命力が弱く、体力もない女だから、そうそう長くは生きられまい。もし一年持ったら御の字というところらしいが、いずれにしても結婚は無理だ。
これは、ちょうどよかったのだアレックス。内気なおまえをそこまで感情的に昂らせるほど大事な女だったとするなら、タティは完全におまえの弱点だろう。あの小娘が殴られようが殺されようが平然としていられる度胸がおまえにあればいいのだが、おまえは残念ながらそういう線引きができない性質だ。それどころか、あの小娘のために喜んで生命を投げ出しかねない。そんなことをされてはこちらが困るからな。
そろそろ、タティは舞台を降りる時期だったのだ。おまえの更なる人生の発展のために、残念ながらあの小娘は不必要だ。役にも立たない、飼っていてももはや何の利得もないつまらん女だ」
兄さんは僕に微笑みかけた。
「しかしアレックス。可愛いおまえにいかに罵られ胸張り裂けようとも、私とは誰よりも寛大な男なので、今はおまえが馬鹿げた感傷に引きずられて蹲っていることを許すぞ。
だが、気の済むまで泣いたら立ち直りなさい。今後おまえには任せる仕事も増えるだろう。それにもしかすると、別の新たな任務に就かせなくてはならなくなるかもしれんのだ。
父上が高齢すぎたこともあり、我らには父系に信頼の置ける血の近い親族がないからな……、おまえ以外には到底、私の名代になり得る者がおらんのだよ」
「あんたはどうしてっ……! どうしていつもいつもそんなに冷酷でいられるんだっ!
あんたはどうしてこの会話を笑いながら話せるんだ、どうしたらそんなに冷血になれるんだっ!」
「アレックス。私がまだ話をしているんだよ。目上の人間の話を遮るとは、作法に反することだ。黙りなさい」
「煩い、何が作法だ。ねえっ、タティを返してくれっ!
お願いだから、タティを助ける方法を探してよっ!」
「ないよ」
兄さんはきっぱり言った。
「小娘は死ぬ」
「でも、でもそんなの嫌なんだ! ねえっ、兄さん、助けてよっ!
可愛いおまえなんて本気で思っているなら、こんなときくらい真面目に僕のお願いをきいてくれてもいいだろうっ!?」
「そんなにタティを助けたいのか?」
兄さんはふと、昔の優しかった頃のような仕草で僕の顔を覗き込んだ。
僕は彼の本性を知りながら、それでもまだ兄さんが僕の願いを聞き届けてくれたことを信じて、彼を見た。
兄さんはゆっくりと、あでやかに微笑んだ。
「ではアレックス。いい方法がある。おまえがその手でタティを処分してやりなさい。彼女が病に苦しむことがないように。
肺病は次第に呼吸が阻害され、息を吸い込めば肺に痛みが走り、しかして呼吸をせねばいられずに、大層苦しい思いをするそうだ。だがおまえがとどめを刺してやれば、小娘は病状が悪化するその前に、楽にあの世に行けるぞ。うん、そうすれば、見事彼女を助けてやれる。名案だね」
僕は立ち尽くした。
この男の理解不能なまでの情のなさに、静かに青ざめた。
「あんた、何言ってるんだ……。
兄さんあんたはいったい人間を何だと……、助けてって……、助けてってそういう意味なわけがないじゃないかっ……!」
僕は頭を抱えて堪らずに悲鳴を上げた。
それを見て、兄さんは可笑しそうに笑った。
「はははは、アレックス、何も泣かなくてもいいだろう。まったくおまえは。これは只の冗談だよ。即興にしてはなかなか上出来だったろう?
しかし、おまえというのは相変わらずどうにも子供だな。この私のジョークの面白さがまだ分からんとは、少しユーモアが足りないのじゃないかな」
「―――この人でなしっ! 人殺しっ!
あんたはっ……、あんたは分からず屋の悪魔だっ……!!」
僕はとうとう耐えられなくなって兄さんに飛びかかった。兄さんに掴みかかり、思いつくだけの口汚い罵り言葉を叫び続けた。
ところが兄さんは唇を薄く歪ませたかと思うと、足を払って容易く僕を床に倒した。激しく背中を打ちつけて、惨めに呻く僕の顔を高みから見下ろし兄さんは言った。
「悪い子だ。私の胸倉を掴むなど――、幾らおまえでもしていいことと悪いことがあるぞ。
アレックス、これは決まったことだ。それを分からなくては」




