第126話 希望の残骸
専門医による僕の診察結果は良好。大して鍛えてもいないくせに、僕は身体が強いのだ。
その上女から生命力を吸い取るなんて、まるで処女の生き血をすする吸血鬼のような話だが、この奇妙な法則がもし本当のことなら、僕は生涯現役を貫けるんじゃないのか? 女たちをさらって来ては貪ることで、僕は世にも残虐な貴族の仲間入りをすることができるだろう。
アディンセル家の当主の弟の妾が肺病に罹った話は、それこそ伝染病のように人々の間に広まって行った。タティを心から心配する声など聞こえるべくもない。同じ城内に出入りしていた誰もが、その情報を仕入れるや、その日のうちに当直医師のところに殺到するか、ほうぼうの診療所に駆け込んだはずだ。肺病は風邪同様の感染経路を持つと言われているからだ。
僕がカイトから話を聞かされた午後には、サンメープル城から年配の貴族たちが退避する姿が見受けられた。神経質になり過ぎの行動だと思うが、彼らにも支えるべき家族があり、確かにそんなことで寿命を縮めたいとは思わないだろう。これは絶対に流行をさせてはならない病なのだ。一人被害者が出たら、患者の隔離は勿論のこと、高齢の者や子供、妊婦はだいたいこのような防衛措置を取らされる。これは流行したら最後、体力のない老人や子供から真っ先に罹る病だった。
昨日のヴァレリアお嬢様ではないが、本当は城内の誰もが、サンメープル城の空気なんか吸い込みたくない気分だっただろう。
その午後は兄さんが留守だったこともあり、遅れて話を知らされた城内の一部では機能が麻痺し、パニックさえ起こっていた。
感染力の低いとはいえ、疫病指定されている肺病が、厳密には使用人の一人であるとは言っても昔から僕の乳姉妹として優遇されているノーマン家の娘に取りついたのだ。
タティは暖かい部屋で僕の帰りを待っているのが主な仕事だった。これは貴族の女が就く役目の中でも、待遇としては非常に条件のいい内容だった。僕がいないときには、無断外出は禁じていたが、部屋の中で好きに過ごしていい自由を与えていたので、気の合う召使いたちとお茶でも飲んでいればいいからだ。だがサンメープル城内には、立っているだけでもつらい寒空の下で過酷な労働に従事している者も多くいるのだ。
兄さんには妃がないので、こんなとき人々を纏め上げるべき女主人がいないことの不都合が痛感させられた。家令は一人で走りまわっていたが、僕にはそれを手伝う気力は起こらなかった。
逃げ出したい者は、逃げ出せばいいからだ。
城の中がどうなろうと僕の知ったことじゃない。
空には月が昇り、僕は暗い部屋の中にいた。
アディンセル伯爵家の男が、抱いた女の生命力を奪うというあの荒唐無稽な話を、夜更けの部屋の暗がりで、震えながら思い出しているところだった。
しかも悪いことに、その話はどうやら嘘ではないらしい。
肺病はこの冬まったく流行をしていない。流行もしていないのに、これは二十歳の健康な貴族の娘が、突然患うような病ではない。
幼い僕は大して気にとめていなかったことだが、そもそも若くて健康な父上の妃たちが、新婚から何年もしないうちに次々と息を引き取っていったことが、正常なことのはずはなかったのだ。僕はこのことにまったく疑問を感じていなかった自分を責めた。
考えてみれば、あまりに不自然な話ではないか。気に入らないからという理由で妻を殺害したり、虐待死させている貴族の話を聞いたことだってあるはずなのに、僕は自分の父親のことについては、現実に妻が四人も死んでいるのに、何か問題が潜んでいることを疑いすらしなかった。
父上がお優しい方だという偶像を手放したくなかったのか……、だって僕に手紙を遺してくれたのは、父上だけだったんだ。母上は僕のことなどまるでお忘れになっていたけど、父上は兄さんと同じように、兄さんと平等に、同じだけ、僕にも心のこもった手紙を遺してくれた方だから。
僕の記憶に彼の姿はなかったが、どんな人柄かを僕は誰よりもよく知っていた。そして実際に彼の評判はよかったのだ。軍人としての能力を叩かれるほど性格の優しい父上だったのだ。
でも優しい性格などこの奇妙な問題にはまったく関係がない。相手を愛しているかどうかも、たぶん関係ない。きちんと結婚を果たしていた父上にも、適当に摘まみ食いを繰り返す色狂いの兄さんにも、平等にこの災厄は起こるのだ。
寧ろやり方としては兄さんのほうが賢いくらいだ。女の立場を考えないならば、いちいち妻にしてその度に目の前で死なれるよりは、短期間のつきあいの代償に金を握らせて後腐れなくできるのなら、そちらのほうがずっと気分が楽なことだろう。
僕は小切手の正確な金額を知らないが、サウスメープル市の一等地に家が買える金となれば、そこそこには纏まった金であるはずだ。短い交際期間の女に手切れ金として握らせるには、さすがに高額すぎる小切手の理由も、そこにあったのかもしれない。
僕の兄さんは生まれついての悪魔だった。それは女の今後の生活のためなんかではなく、恐らく幾らか寿命を毟り取ってしまったことへの代価だったのだ。
「誰のせいでこんなことになった……?」
狂おしい深夜。
部屋の灯りは僕の胸中の憎悪のように、赤々と輝く暖炉の光だけだった。
そのときの僕は、その午後遅くにあったことを思い出して、果てるとも知れない憎しみに駆られていた。
「誰のせいで……」
僕は今にも力尽きそうな自分の中に燃え盛る殺意を抱え、絨毯に爪を立てていた。
世界を呪いたい気持ちとは、このような気分を言うのだろう。
人類の歴史にときどき登場する、危険視される憎むべき独裁者たちの心の闇を知る術はないが、彼らの闇がもしつらい喪失や理不尽な悲しみによって作り出されたものであるのだとするなら、今の僕はその専制に諸手を挙げて賛意を示すことができるだろう。
僕の周りの絨毯には、僕が所有する医学書という医学書が散乱していた。タティを助ける術がないかと、我を忘れて調べた希望の残骸。どの本も頁が開き、考えられない散らばり様だった。それに魔術書もあった。先祖の手記。薬学。化学。ヒントにならないかと引っ張り出して来た歴史小説や、出所不明のまじないの本もあった。
でもそれらが僕にもたらしてくれたのは、タティの病を治す方法でもなければ、何か別のやり方でタティの生命を助ける方法でもない。
タティの死を食い止める手段がない、ということを僕に知らしめ確信させることだった。
それは言うまでもないことだった。僕としても結果は分かっていた。何しろ、もし肺病を治してタティを助ける手段があったなら、そもそも母上は今でもお元気でいらっしゃったはずなのだ。
母上が、もし今お元気でいらっしゃったなら……。
お元気な母上は、僕のことも、きっと可愛がってくださっただろう。
今では誰も止めることができない兄さんの横暴を、きっと叱ることだってあっただろう。
そしてこんなときには優しく背中を撫でてくださったに違いない。
しっかりしなさいアレックス、タティもきっと大丈夫よ、わたしが大丈夫だったんだからと――。
ありもしないことを想像して、こぼれる涙を拭った。
現実はそうじゃなかった。
この世界は愛する人が次々といなくなってしまう地獄なのだ。




