第125話 アディンセル家の悪夢(2)
僕は執務机についたまま、呆然としていた。
あまりにもあっけなくて、実感さえ持てない半面、朝から感じていたそうなるのではないかという悪い予感が、的中してしまったことに言葉を失っていた。
僕はきっと精霊魔法を習っていたのなら、割と高位の魔術師になれたのではないかと思われるほどの――、こんなことは、あまりにも信じ難いことなのだが、肺病に罹ったらそれでその人間の人生はおしまいなのだ。彼らはもう二度とそれまでの人生に戻ることはできない。他人に感染することを防ぐために、死ぬまで病室に閉じ込められることになるからだ。
貧しい階層の人々の間では、感染の危険と長患いの負担から残された家族を守るために、肺病患者を間引いてしまうことすらあるらしい。
そして遺体は火葬されることになる。
僕は机の前で厳しい顔をしているカイトの顔をみつめたまま、何か言葉を発しようと思ったのに、胸が詰まってすぐには言葉が出てこなかった。
確かに肺病は患えば必ず死に至る死病ではあったが、健康な成人が矢継ぎ早に罹るほどの強力な感染力はなく、疫病としての威力は弱いものだったからだ。体力が低下していたり、体調が悪かったりしている悪条件が重なっているのでもなければ、若い人間がこれに罹ることは珍しいと言えた。
それはつまり、マリーシアにのぼせていながらタティと何度も関係を持ち、その度に生命力を掠めていた僕のせいであるということを、物語っていた……。
「ご心中、お察し申し上げます」
悲しげにカイトが囁いた。
「間違い、ないのか?」
「ええ……」
「それ、本当にタティのことなのか?
君はうっかりして、他の誰かと……、間違えているんじゃないか?」
僕は笑顔を作ってカイトに事態の訂正を求めたが、カイトは首を横に振るだけだった。
「残念です……」
「……」
肖像画の母上の姿が脳裏に浮かんだ。若くして肺病になり、そのまま悲しく死んでいった、お会いしたことのない母上の姿が。
母上はアディンセル伯爵妃だ。子供を生むことを明確に期待されていた、少し家柄の劣る娘だったとはいえ、彼女は肺病にかかったとき、既に兄さんを生んでいた。
老齢の伯爵を最後に直系が途絶えかねない危機的な状況下において、見事男子を上げることに成功した母上のことを、当然伯爵家としては大切にしただろう。彼女に最高の療養と治療を施しただろう。
でも助からなかった。
彼女が老人の夫を愛していたかは知らない、ただ独り病室で、病に苦しみながら、会うことも叶わず、腕にも抱けない子供の兄さんに、手紙を書いて暮らした。
肖像画の母上は少女の姿だ。
遠からず自分の時間が止まることを知っていたかのように、不安でいたいけな瞳で、まるで祖父のような年齢の夫と並んで、今でもぎこちなく笑っている――。
これほどまでに残酷なことがあるだろうか?
こんな酷いことが、あっていいのだろうか?
タティが死んでしまうことを、肺病に罹って確実に死んでしまうことを、他でもない母上が、僕の母上が身をもって証明していたのだ……!
それから僕は思い出したように狼狽し、自分でさえ何を言っているのか分からないことを言いながら、とにかくタティのところへ行こうと執務机を立ち上がったが、そのまま部屋を飛び出して行くことはできなかった。カイトが僕を捕まえて、暴走を阻止したからだった。
「落ち着いて、落ち着いてくださいって。貴方が行ったところでどうにかなるわけでもない。それより貴方はご自分のことを考えて頂かないと」
「離せっ! タティが死んでしまうっ! タティが死んでしまうんだっ!」
「分かっています、それは俺だってよく分かっている。この病に罹った以上、残念ですが彼女は死ぬしかない……」
カイトが相変わらず冷静でいることが分からずに、僕は身の毛が逆立つような思いで息を深く吸い込んだ。
それを制するようにカイトは僕の目を見て繰り返した。
「とにかく落ち着いてください。ここで騒いでもどうにもならないことを理解してください。貴方がそんなふうに取り乱していると、周囲への示しがつかないことをです。
叫びたいのは分かります、でも貴方は常に誰よりも泰然と構えていなけりゃならない……、閣下が常にそうあるようにです」
「兄さんは心臓が鋼鉄製なだけだよ! 僕はまだ……、タティとちゃんと仲直りもしていないんだ!」
「それに、彼女は午前中のうちに城の離れに隔離されました。その昔、アレックス様のお母上様が隔離されていたという離宮です。タティの実家に引き取らせることも考えられたそうですが、家族に老人がいるという話もあり、そこは閣下がご配慮くださいました。
事後報告になったのは、貴方が恐らく飛んで行きかねないと思ったからです。しかし伯爵様のご命令により、今後貴方がタティと面会することは一切許されません。
貴方は大事なこのアディンセル伯爵家の人間で、たとえ僅かな確率であっても肺病に罹る危険性のある以上、患者の側に寄ることはできません」
「僕のせいだっ、僕のせいで、タティがっ、タティがっ……!!」
「落ち着いてくださいアレックス様。
貴方もこれから医師にかかって頂くことになります。ここのところ、あまりタティとは接触していらっしゃらなかったかもしれませんが、それも今となっては運がよかったと言えるのかもしれませんね。
一応、とにかく半刻後にここへ診察に来ることになっていますので、どうぞ落ち着かれてください」
「離せカイトッ、どうしておまえはそんなに冷静でいられるんだ、タティはおまえにとっても子供の頃からのつきあいだろう!?
僕はおまえがそんなに冷血だとは知らなかった!
さすが、エステルを顔色ひとつ変えずに斬り殺しただけのことはあるよっ……!」
僕が酷い錯乱のために、また見当違いの罵りを言っていることを、カイトは理解してくれたようだった。
「……アレックス様、それからもうひとつご報告が。
タティは妊娠をしていなかったそうです。これは不幸中の幸いのことです。もし腹に胎児が宿っていながら肺病ということになれば、最悪の場合、一度に二人を失うことになったかもしれない。それはもう、目も当てられない状態でしょうから……」




