第124話 アディンセル家の悪夢(1)
もしこの世界に本当に愛というものが存在すると言うなら、それは僕のしでかしたことを決して許さないだろう―――。
その言葉が、念を押すように、夢から覚める間際の僕の心に重たく響き渡った。
それは雪の深い午後のことだった。
その日は風がなく、灰色の虚無の無音のその中に、しんしんと雪だけが降り続いていた。
銀世界などではなかったのだ。まるで世界の終わりを肌で感じているかのようだった。起き抜けに感じた悪い予感に気づかなかったふりをして、僕はその日を過ごしていた。でもあの日はいつもとすべてが違っていた。
あれは絶望的なまでに、狂気のように、白い日だった。
あのとき僕は時間をどのように過ごしていたのか、窓外の雪景色と重なる記憶の白い光の中を、影のように行き交う使用人たち、僕に敬礼する文官たち、でも、僕には分かっていたのだ。魔力を持っていても、今となっては精霊を使う術など持たない僕だが、世界に漂う空気の感触が違うということを、僕には恐らくその報せが届くことを、たぶんもう分かっていた。
「アレックス様、悪いニュースです」
執務机についていると、カイトのいつもよりトーンの低い声がした。いつものおふざけが完全になりをひそめていた。
僕はその存在にずっと気がつきたくなかったが、その呼びかけに応じて顔をあげると、カイトは静かに言った。
「タティが肺病に罹りました」
カイトの口調は冷静で厳粛、表情には苦悩があった。そして僕は握っていた羽根ペンを指先から取り落とした。床に滑り落ちたペンが、乾いた音を立てた。
僕は心底驚いていたが、不思議なことに頭の何処かでは納得してもいた。
前日、あの馬鹿げたやり取りの後、僕はすぐに医者を呼びつけてタティを診させたのだ。僕の腕の中にいるタティの身体は、不安になるくらい軽かった気がする。結果は風邪をこじらせたのだということだった。彼女の熱は高く、安静にさせなければならないという理由から、別室に運ばれて行った。
そして僕はタティの具合がずっと悪かったことに気づいてあげられなかったことを後悔していた。僕がマリーシアに浮かれている間、タティはずっと精神的に参っていただろうから、それが影響をしているということは分かっていたのだ。
僕はタティを不安にさせてしまった。もう身体の関係を持ってしまったのに、僕に結婚して貰えなかったらと思うだけで、貞潔を守るべく厳格な教育を受け、しかもそれが世間に知れ渡ってしまっている状態で、タティがどれだけ心細かったかを思うと、僕は静かに胸を痛めた。
けれどもその時点において、僕はまだ本気でタティのことを考えているとは言えなかったのだ。僕の主だった考えとは、年末から現在まではふた月と少ししか経過しておらず、これは長い人生という視点から考えれば、若い時代の他愛のない出来事に過ぎない、というものだった。
確かにひとときマリーシアに関心が向かってしまったことが浮気だとタティが言うなら僕はその責めを否定するつもりはないが、僕はマリーシアと寝たこともなければ、まともに会話を交わしたことすらなかったのだ。
エステルと関係を持ったことは恐らく浮気に当たるのかもしれないが、でも厳密にはタティにプロポーズをする前のことだった。そして僕は突きつけられた選択によって明確にエステルよりもタティを選んでいた。
となれば、これは劇場のアイドル女優だの売春婦だのに現を抜かしている世の中の男たちなんかとは比べ物にならないくらい健全なことだったし、もっと瞬間的で、罪とも言えないような些細な出来事に違いない。そして僕はマリーシアと何か間違いのようなことをしでかすよりもずっと早く、自分にとってタティが大事な存在であるということに気がついていた。
確かに僕は今もってルイーズやロビンに見惚れてしまうことがあるし、今でもマリーシアに対して憧れる気持ちはあった。確かにマリーシアのことを、心の中からきっぱり手放すことができているわけじゃない。でも、それはきっと大した問題ではないのだ。もっと積極的で軽薄で良識を欠いた男であれば、今頃は彼女たちにアプローチをするべく動いているところなのかもしれないが、僕は結局は眺めるだけで自己完結しているのだから。
だから僕はタティに少し悪いことをしたかもしれないが、そんなことはきっと小さな問題で、将来に禍根をもたらすような重大な問題なんかではなく、僕たちはまたそれまでのように親しく日々を過ごせるだろうと確信していた……。
僕は黙ってカイトを見上げていた。
彼がまたくだらないジョークでも言っていることを、笑って僕に打ち明けてくれるのを待ち望んでいたのだ。
けれども極めて実直な口調でカイトは言った。
「実は昨日の時点で、肺病の疑いがあるとのことだったのです。確定ではなかったので、一応、アレックス様から遠ざけさせただけで内容についての報告は控えたそうなのですが。
けれども本日午前、専門の医者による診断によって、それが確定であることが分かりました。残念ですが……」
肺病に罹った。――これは只の病気報告ではなかった。
この地域にときどき流行る肺病は、所謂不治の病に分類されているものだった。体力や病気の進行によって余命にかなりの個人差は出てくるが、この病に罹って生還した人間は未だかつていなかったのだ。
つまりこれは事実上の死亡宣告を意味していた。




