表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
伯爵の恋人  作者: 吉野華
第10章 涙の物語
123/304

第123話 腕の中の僕のタティ(3)

彼女は僕の足の指を思いっきり踏んだのだ。靴の上からとはいえ、まったく酷い女だった。それで僕は黙るどころか、この痛さに耐え切れずに、その場に蹲ってしまった。

指先がじんじんと痺れるようで、こんな乱暴な仕打ちは未だかつて兄さんにだってされたことがないほどだった。これはまったく酷すぎる気の強さだった。

そうしているうちにも、頭上からカイトが遠慮がちにヴァレリアお嬢様を非難する声が聞こえてきた。


「ああ、なんてことを。お願いしますよお嬢様、幾ら何だって相手を考えて……、アレックス様はね、貴方より偉いんですよ。貴方のお父上様よりも階級が上なんですよ。

そんな相手に普段俺にするようにして貰っては、彼の一存で俺どころか男爵様の首だって飛びかねないんです。これは脅しじゃないんですよ……」

「煩いわね! カイトのくせにわたくしに口答えするつもり!?」

「いや、口答えではなく、お嬢様にもそろそろ常識的振る舞いってものを……。

とにかく、今すぐアレックス様に謝罪をしてください。ウェブスター家の邸の外では、貴方の道理は通らないんです。貴方が使用人たちにしているようなことを、アレックス様もまた貴方に対しておできになるんですよ」

「平民はお黙りなさいよ。下男に説教される覚えはないわ。それとも何? おまえまさか夫気取りなわけ?

だとしたらふざけないで、わたくしはそんなに落ちぶれていないのよ。お父様が結婚を決めたからと言って、わたくしが素直に応じるなんて思わないで頂戴ね。とにかくわたくしはおまえごときと結婚なんて、絶対ごめんなんですから!」


そこにタティまでもがばたばたと危なっかしく駆け寄って来るのが分かった。

こんな凶暴な女を相手に、か弱いタティが勝てるわけはなかったので、彼女には奥の部屋に隠れておいて欲しかったのだが、痛さのために声が出せなかった。


「アレックス様っ」


タティは僕のすぐ側までやって来ると、何を思ったのかお嬢様に対して文句を言った。


「何をするんですかっ!? 貴方は、貴方はどうしてこんなことをするんですかっ!?」


でも案の定喧嘩腰どころか、今にも泣きそうな、怯えて震えているような声だったので、ヴァレリアお嬢様に対しては何の脅威にもならなかった。僕はとにかくタティを庇わなければならないと思って、顔をあげた。

すると目に飛び込んで来たのは、お嬢様がこの上なく不機嫌な顔をして、今まさにタティに言い返すところだった。


「出たわね芋娘! だっさい芋娘の分際でこのわたくしに、何?」


ヴァレリアは腰に手を当てて、傲慢な口調で言っていた。僕がちょっとばかり言い過ぎてしまったせいなのか、彼女の怒りは頂点に達しているような様子だった。

ヴァレリアは手を伸ばし、タティの髪を指先で弾いて鼻で笑った。


「ほんと、おまえって可哀想なくらいの田舎娘よね。あんまり芋臭いので呆れちゃったわ。

そうやって髪型やドレスで誤魔化したって、所詮は下級貴族。おまえも、三代前辺りは農民だったんじゃありませんこと? ほら、頬っぺたが赤くなっていてよ」

「アレックス様に、謝ってくださいっ」


ヴァレリアはタティの頬の辺りを指差して嘲笑っていたが、タティはまた言った。


「嫌よ」


ヴァレリアは貴族的に手を振って、それを撥ねつけた。


「おまえの指図は受けないわ。おまえはいったい何様よ。この頭の悪そうな芋娘風情が。

まったく冗談じゃないわね、誰がどう見てもわたくしほうが家柄がいいし、わたくしのほうが賢そうだし、わたくしのほうが美人じゃないの。

ねえおまえ、こうやって男に囲われて性の捌け口にされているご気分はどんなものなのかしら。おまえみたいな下女に道徳やモラルについて説教をしても無駄だということは分かっているけど、結婚もしないで男の相手をするなんて、なんてふしだらな女なの?

この恥知らず! そういうのはね、世間では売春婦のすることって相場が決まっているのよ。まともな家庭なら、平民女だってもっと慎みというものを知っているものだわ。

しかもそのことを皆が知っているなんて、わたくしだったら耐えられなくて、懐剣で心臓を抉り出しているところね!

なのにこんな芋みたいなのがそのまま妻になるだろうなんて……、爵位もない家の娘が……、まったくどうしておまえみたいな芋娘が副伯夫人で、このわたくしがみじめな平民男の妻だなんてこんなの世の中間違ってるっ……!

だいたいね、アレックス様だって情けないのよ。今だってわたくしには言い負かされるし、武官の名門出のくせに自分のところの騎士団にさえ出て来ないし、いっぱしにおまえみたいな情婦は囲うし!

ほんと情けない。ほんとださい。彼はまさに身分以外には取り柄がない男の典型よね!

だいたい連れている女を見ると、その男の程度が知れるって言うけど、おまえを見ているとアレックス様の程度も知れるというもの……」


するとタティがヴァレリアの頬をばちんと叩いた。


「アレックス様のことを、悪く言わないでくださいっ」


あの減らず口には、僕やカイトが恐らく何度そうしたいと思ったか知れないが、でもどうにもすることができなかったことを、タティが、あの気弱なタティがいきなりやってのけたのだ。

タティは顔を真っ赤にして、今にも泣きそうな顔でヴァレリアお嬢様を睨んでいた。

この信じられない光景に僕もカイトも唖然としていたが、いちばん驚いていたのはヴァレリアだっただろう。彼女はさすがにそんな反撃をされるとは予想だにしていなかったという顔で、叩かれた頬を押さえて、呆然と口を開けていた。


「わたしのことは何と言ってもいいけど……、でも、でもアレックス様のことを悪く言わないでっ!」


タティは叫んだ。

しかしすぐに我に返ったヴァレリアが、それまでよりもいっそうきつい顔をしてタティを睨んだので、僕はまずいと思ったがもう遅かった。


「……何するのよっ! このわたくしの頬を叩くだなんてっ……、おまえは下女の分際で、生意気に調子に乗るんじゃないわよっ!

わたくしを誰だと思っているのよ。おまえ程度の女が、対等に口をきける相手とでも思ってるのかしらっ?

ほんと、見てて苛々するわ、こういう男社会に飼い慣らされた馬鹿女のことは。自分が侮辱されたことを怒るならまだしも、アレックス様を悪く言わないでですって?

おまえみたいなのがいるから、この社会では女の地位が低い上に、女全般が馬鹿だと思われることになるのよ。何がアレックス様よ、男の奴隷にされてることにも気づかないで馬鹿じゃないの!

でもね、幾ら馬鹿だと言っても身分くらい弁えたら、このど田舎娘っ!」


ヴァレリアはそう言って、タティのことを両手で突き飛ばした。

突き飛ばされたタティは足を縺れさせ、そのまま仰向けに倒れたので、タティの足元に丁度しゃがみ込んでいた僕はとてもヴァレリアを怒っている余裕などなく、急いで彼女を受け止めることで何とか事なきを得た。


「お嬢様っ、なんっ、何つうことをするんですかっ、人間を一人ぶっ倒すなんて、何つう腕力ですかっ」


カイトがさすがにヴァレリアを叱っているかのような声を上げたのだが、確かにそれは異常なことだったのだ。

ヴァレリアはタティとは違って武芸を嗜んでいるにしても、そう体格差があるわけでもない娘を一撃で昏倒させるなんてことは、そうそう普通のことではなかった。


「タティ?」


僕は腕の中に倒れ込んだタティを揺すったが、既に意識がなかった。

彼女の身体は熱く、実際に熱があって、呼吸は弱々しかった。


「や、やだ、何よカイト、そんな目で見ないでよ、そんなに力なんて込めてなかったわよ。

だいたいその娘のほうが先に手を出して来たんだからわたくしは悪くないわっ、こっちは単に脅かすつもりで……」


タティの異変に気づいたヴァレリアが、さすがに弱気な声を出していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ