第121話 腕の中の僕のタティ(1)
ヴァレリアはまったく僕の妻女気取りでソファに陣取り、最初はタティに命令して、お茶を淹れさせていた。タティは僕のお嫁さんになったら身分がうんと上がるんだし、別にヴァレリアの言うことなんか聞かなくてもいいのだが、まるで召使いみたいに言われた通りにしていた。
しかもヴァレリアは不愉快な言葉でタティをいびろうとするので、さすがにタティがいたたまれないと思い、僕は早々にタティに近寄って、彼女に奥に引っ込んでいるように言った。
するとタティに逃げられたヴァレリアは、僕の部屋の召使いたちをみつけると、今度は腹立ち紛れに彼女たちを掴まえて何か小言を言い出した。
使用人に対するヴァレリアの態度は確かに堂々としたものだった。召使い相手にさえ何処か遠慮があるタティとは振る舞いがまるで違っているのだが、逆らうならおまえを頭から暖炉に押し込んでやるとか、悪い貴族の見本のような言葉が出てくるのはある意味では大したものだった。勿論悪い意味でだが。
しかしウェブスター家ではどうか知らないが、少なくとも僕は使っている使用人をそんなふうに酷く扱ったりはしない主義だった。だから僕の部屋の召使いたちは皆ヴァレリアを恐がってしまい、何かと理由をつけて部屋を出払ってしまうか、タティのように奥に逃げてしまった。
さして時間がかからないうちに、静まり返って閑散とした休日のリビングで、この部屋の主人である僕は一人で虚しく先ほどのお菓子の缶を引っ張っていた。
僕はこの部屋の主人として、この馬鹿げた状況に立ち向かうべきなのだろうか? ある種の人々は勿論そうするだろう。しかし僕は、あまり争い事は好まない性質だった。
それにそう、夏辺り、窓を開けっ放しにしていると、部屋の中に虻なんかが迷い込んで来ることがあるだろう。女の人たちは大抵悲鳴をあげて過剰に怖がったりする。でも彼らは、構わなければ襲いかかって来ることはないのだ。ああいうのには、近づいたりしなければいいのだ。そのうち放っておいたら、勝手に窓の外に出て行ってしまう。ヴァレリアもたぶん、そういう虫とかと同じなんじゃないかと僕は思ったのだ。
まあヴァレリアは、自分から攻撃対象を見つけるのが得意なようなので、虻よりは蜂かもしれない。危険度は、スズメバチくらいだろうか。そしてか弱く嫌がらせが通用する人間がことごとく逃げ出してしまったとなれば、まあ当人としてはごく当然の振る舞いをしているだけなのかもしれないが――、この好戦的なお嬢様の次なる目標は、おのずと決まってくるのである。
「この馬鹿下男っ! どうしてくれるのよっ!」
お嬢様は高飛車な態度で仁王立ちになり、今はリビングのドアのところにいるカイトをどやしていた。
「昨日お父様が、お父様がおまえと結婚させるなんて言い出したのよ! それも聞いて驚かないで、今年ですって!
伯爵様が、これからいろいろ立て込むから今年の後半以降にしろっておっしゃるから、今すぐってことにはならないみたいだけど……でも結婚させられるわ!
ねえっ、こんな酷い仕打ちがあって? このわたくしに農民の血を引く子供を産めって言うのよ! カイト、汚らしいおまえの子供をよ!
ああっ、考えただけで汚らわしくて、おぞましくて、わたくしもう死んでしまいたい……!
お父様は所詮男だから、こんな下男の子供を産まされる女の気持ちなんか、訴えたって聞いてさえくださらないし……」
相変わらず本人を目の前にして何という言い草かと思うが、カイトにいちゃもんをつけているときのヴァレリアというのは、普段に輪をかけて活力に満ちているように見えるのは気のせいだろうか。
またヴァレリアがいると、カイトもカイトでいつもの明るくて冗談好きな性格を出さないのだ。カイトはヴァレリアが僕の部屋に登場してからずっと、警戒していると言っていい顔をして、まるで衛兵みたいに部屋の入口に突っ立っていた。
ヴァレリアからすると、他の女には愛想がいいくせにどうして自分には冷たいのかという思いがあるかもしれない。しかしカイトからすれば、両親や妹たちを殺した仇の娘であり、しかも自分につらく当たる女に微笑みかけろというのは、他に好きな女がいないとしたって、幾ら何でも無理な相談だろう。
まあそれでもカイトはヴァレリアより体格の大きい彼女の婚約者なので、タティのように庇ってやるまでもないだろうと、僕は静観を決め込んでいた。
ヴァレリアは両手の拳を握り締めると、更にカイトに向かって捲し立てた。
「こんな酷いことになったのは、カイト、全部おまえのせいよっ!
どうせおまえが分も弁えずにお父様に上手いことを言ったんでしょう。そのおかげでもうわたくし、恥ずかしくて社交界に出られやしないわ!
夫が平民なんて、あんまり酷いわよ! 夫が平民だなんて、こんな、臭くて地べたを這いずる蛆虫だなんてっ……!
こんな男と結婚したら、もう誰もわたくしとまともに口を聞いてくれないでしょうし、お友だちだって離れて行ってしまうのは目に見えているわ。いい笑い者よ。それどころか、今後皆さんがどんな蔑んだ目でわたくしを見るかと思うともう外も歩けないわよ……、ねえっ、それなのにこんなのってあんまりよ、おまえときたら今日だって、本当に狡賢くて下品なんだから。いやらしいっ! 大嫌いよっ!」
カイトは入り口横の壁に寄りかかり、相変わらずカップを両手で握ったまま、ヴァレリアに侮辱されても何か言い返すでもなく、傍目にも哀れに思えるほど大きな身体を小さくしていた。
彼はまるで世界一気弱な男のように、彼女に怒鳴り散らされるままになっていた。
僕のことを説教する割に、自分だって肝心なときにはてんで情けないじゃないかと、僕は少し思った。誰にでもそういうところはあるだろうが、カイトの場合は特に、時と場合によって人格さえ使い分けているとしか思えない対応を取っていたのだ。
虐待された子供の過酷な精神状態について、幸運にも僕には幼少期に学ぶ機会さえなかったのだが、もしそのときの僕がそれを知っていたなら、カイトのそれが有無を言わさぬ暴力から身を守るための哀れな条件反射だったと、理解することができただろう。
でもそのときの僕に分かったのは、彼の反応には女に対する遠慮や配慮だけで行われているわけではない、苦痛が垣間見えるということだけだった。
そしてそれをいいことに、ヴァレリアの言葉の暴力は度を過ぎていた。
僕は仲裁に入るべきかどうか迷ったが、しかしせっかくヴァレリアの関心が僕から離れたというのに、下手にこの話に口出しをして、問題に巻き込まれたくなかった。
それにヴァレリアがどんなに喚こうと、僕と結婚すると言い張ろうと、彼らの結婚はもう決まった話なのだ。彼らは近いうちに婚約をするだろう。実質婚約しているも同然だったし、周りもそのように見ていたのだが、最近デイビッドが兄さんにそういう報告をし、兄さんが承認したのは事実のようなので、年内結婚は本決まりのようだった。
こういうことにならないために、好きな女を僕に言えば、手を尽くしてやったのに……、僕は横目でカイトを見て、心の中で呟いた。
「おまえ、本当は他に好きな女がいるんでしょう」
ふと、ヴァレリアが核心を突くようなことを言ったので、僕は缶を引っ張る手を止めた。
僕がそっと振り返ってみると、ヴァレリアになじられて壁に背をつけているカイトが、何とも言えない顔をしていた。彼は否定も肯定もしないで、微かに顔を歪めているだけだった。こんな状況自体が不快でならないという気持ちを、噛み殺している表情とでも言えばいいのか――。
「結婚してください、お願いしますと頭を下げなさい」
カイトのそうした考え自体も気に入らないのだろう。ヴァレリアは僕のいるソファからは背中しか分からないが、その声色は悪意に満ちていた。
「おまえはみすぼらしい村落生まれの下男なのよ。何をおいてもこのわたくしに、頭を下げるのが当然でしょう。うちで使っている使用人どもは、わたくしの命令ならば自分から肥溜の中にだって飛び込むし、石だってかじってみせるって言うのに。ましてやおまえが、わたくしの命令にそんな反抗的な顔をするなんて許し難いわ。
昔は素直に靴の裏を舐めたくせに、今はアレックス様に飼い慣らされてこのていたらく。お父様の鞭を恐れて逃げまわっていた野良犬は何処へ行ったのかしら。
でもね、わたくしはアレックス様のように甘くはなくてよ。
おまえは分不相応な野心を持って、まったくどうしようもない男だわ。さっき伯爵様は他人事のように笑っていらしたわ、憎らしいわたくしと結婚をしてでも、ウェブスター家の所有する爵位と、確かな地位が欲しいんだろうって……、いいことだって彼は言っていたけど、わたくしがいったいどんな気分だったかおまえに分かるかしら!
この卑しい物乞い。乞食。おまえはそうまでしても権力を手に入れたいんでしょう。だったら、お願いしますヴァレリア様って言いなさい。わたくしへの屈従を誓うのよ。さあ、言いなさいよ」
カイトは無言で首を横に振った。
すかさずヴァレリアはカイトの頬を勢いよく撲った。
「言いなさいよっ! この下男っ! 薄汚いドブネズミの分際で――」
「何をするんだっ」
結局、ヴァレリアがあんまりカイトをこきおろすのを見ていられなくなった僕は、カイトのために口を出した。
「カイトは君の夫だぞ! 夫を殴るなんてどういうつもりだよ」
僕は後ろから彼女を叱責した。




