第120話 恋の成就は程遠く(2)
僕はお嬢様の言い分に当惑しつつ、僕のやや後ろにいるタティをちらっと見たが、案の定、握った両手を胸の前に持って来て、たちまち不安そうにしていた。エステル、マリーシアと続いて、これ以上僕に浮気の容疑がかかるのは、僕の望むところではなかった。
僕はふと思いつき、居間の扉のところにいるカイトに目をやったが、彼も何だか、面白くはないような顔をしていた。
「ヴァレリア、そういうのは、よくないと思うよ。分かっていると思うけど、僕らは断じて無関係だ。君とは年末以降一回も会ってないだろう……、僕は君と個人的なつきあいはないし、君には手紙すら書いたことがない。何かあったみたいに言わないでくれ」
「あら、いいじゃありませんの、だってこれからあるんですから!」
ヴァレリアは言葉の内容に反して、僕を見上げて凄んで言った。
「ないと思うよ」
僕は保証した。
「いいえ、わたくしがあると言ったらあるのよ!」
ヴァレリアは強気で押した。
「わたくし貴方と結婚することを希望していますの。これを貴方は否定できて?」
まるで正義は自分にあるとでも言わんばかりの自信が理解不能なのだが、生憎と僕はヴァレリアの脅迫に応じる必要のない立場にある人間なので、きっぱり答えた。
「否定できるよ。だって僕、タティと結婚するから」
するとヴァレリアは眉を吊り上げ、それから全身で怒りを表現した。
「ちょっと、だからどうしてそこでその芋娘を立てるのよっ!
アレックス様、貴方、頭おかしいんじゃなくて!? ここはわたくしの立場というものを考えなさいよっ!」
「なんで僕が君の立場を考えるんだ」
「煩いわね! とにかく、貴方はそうやっていつまでもガキみたいな我侭を言わないで頂戴。貴方は黙ってわたくしと結婚すればいいのよ。
アレックス様、貴方は道を歩いていて盗賊に襲われている女がいたら、助けに入るでしょう。当然そうじゃなくてっ!?」
「勿論だよ」
僕は頷いた。
「じゃあわたくしを助けなさいよ。わたくしはまさに今、それと同じか、それ以上の危機に瀕しているのよ!」
ヴァレリアは大袈裟に自分の胸に手をあて、もう片方の手を広げて力説した。
「盗賊?」
僕が首を傾げると、ヴァレリアは僕の背中のほうを指差した。
僕は振り返って、ドアのところで腕組みをしているカイトをまたちらっと見た。
「彼がってこと?」
ヴァレリアは強く頷いた。
「ええそうよ、あいつは強盗だわ。卑しい賤民の分際で、ウェブスター家に押し入って、何もかもを掠めて行こうとしている」
「ああ、そういうことか……」
「だから、分かったら貴方はおとなしくわたくしを助けるべきよ。
しのごの言っていないで、さっさとわたくしをアディンセル家の花嫁に迎えると言いなさい! あの男の目の前で、はっきりと言ってやって頂戴!」
ヴァレリアは強気に言った。
「そうすればすべての問題が、綺麗さっぱり解決するんですから。ウェブスター家の持つ財貨や荘園とかを全部あいつにくれてやったって、全然問題にもならないような身分も土地も財産もある男のもとに嫁ぐことができれば……、わたくしはこの苦しみから解放される。ねえっ、外堀を埋められて、もうこれしか方法がないのよ!」
ヴァレリアは焦っているようだったが、僕にとってはどうでもいい話だった。
要するに彼女は僕と結婚したいのではなくて、カイトと結婚するのが、嫌で仕方ないということらしい。しかもどうも彼女の頭の中には、無理やりカイトに迫られて困っているとでも言いたいような、奇妙な設定があるような気がした。
勿論これは空想好きの人間の推測なのだが、あながち間違ってはいないような、そんな滑稽な緊張感がヴァレリアにだけあった。
「じゃあ、兄さんに結婚を申し込んだらいいんじゃないかな。君が希望するような地位と財産を持ってるし」
僕の穏便な提案を、ヴァレリアは激しく一蹴した。
「馬鹿ね!」
そして自分の癖のない黒髪に手を入れると、更に邪魔臭いほど自己主張した。
「わたくしの髪をご覧なさいよ、この豊かで美しい黒髪を。毎日侍女どもにたっぷり時間をかけて手入れをさせて、最高の状態を保っている美しい自慢の髪よ」
「うん。素敵だね。つやつやしてる」
僕は答えた。
「あ、ありがと、……まさかここで褒めてくるとは思わなかったわ。貴方、なかなかやるわね。貴方のいいところはあの下男と違って、美しい女を素直に美しいと褒められるっていうところだわね……。
だけどそんな程度じゃ駄目ね。わたくしが美しいなんて、そんなこと当然のことだから、その程度のことでわたくし煽てられたりしないわよ。
常識的に考えて、悪いけど、今の時点では貴方よりは伯爵様のほうがわたくしの夫とするのに相応しいと思っているのよ。仕方ないでしょう、どう考えても、貴方なんかじゃわたくしに釣り合わないもの。
でも彼は金髪女しか相手にしないってお話じゃない。誰もが表立っては言わないけど、伯爵様は誘拐してでも金髪女を確保する、金髪好きのど変態なんでしょう。ブロンド女っていうだけで興奮するなんて、いったいどんな変態よ。おまけにどSだそうじゃない」
「それには同意せざるを得ない」
僕は何と言うか身内の痴態が恥ずかしく、頬を染めて素直にそれを認めた。
「だからわたくし、考えたのよ。今の貴方でなくて、五年後、十年後の貴方と結婚すればいいんじゃないかって。そうすれば、今よりは多少はましな男になっているでしょうから。
いいこと、これは勘違いしないでよね。わたくしは仕方ないから貴方で妥協してあげることにしたのよ。決して貴方なんかがいいってわけじゃないってこと。
まあとにかく、そんなわけだから貴方は素直にわたくしと結婚しなさいよ」
「嫌だよ」
「どうしてよっ、貴方ね、たった今レディの髪を褒めておきながらその返答はどういうことよ。乙女を口説いておきながら、それはあんまり無責任じゃないの。これだからお坊ちゃま君は頭に来るのよ。レディに恥をかかせるおつもり!?」
「いや、でも……」
「煩いわね! とにかく、そういうことですから。
わたくし今日からここで暮らしますから、その芋娘のことは今日中に追い出してくださいね、貴方」
ヴァレリアお嬢様は、どう考えても僕に好意を持っているようには思えないのだが、妻になるという話を引っ込めなかった。
彼女はそのまま勝手にソファに腰かけ、脚を組んだ。彼女がタティに挑戦的な視線を向けると、タティは召使いのように縮こまって下を向いた。
いきなりやって来たヴァレリアのほうが、女主人としての風格と言うか、そういうのがあるというのも奇妙な話ではあるのだが、実際そうで、彼女はそのまま僕の部屋に落ち着いてしまった。




