第12話 水の中のタティ
木々のざわめきの中に微かに水のせせらぎの音が聞こえてきて、やがて僕らはトマトの漬けてある森の中の小川に辿り着いた。
途中から人の歩いた小道をはずれ、ときには下草を踏みしめることを疑問に思いながら、しかしパーシーに言われた通りに進んで来た道筋は正しかったのだろう。木漏れ日の降り注ぐ中、赤いトマトの入れられたかごが、緩やかな川の中の大きめの岩に、縄を使ってくくりつけてあるのがすぐに分かった。
さっそくタティが靴を脱いで、川の中に取りに行こうとするのを僕は止めた。
「待って、僕が取って来るよ。タティはここで待ってて」
「いえ、でも、アレックス様が水の中で転ばれたり、石で足をお切りになっては大変ですから」
「じゃあなおさらそうだ。怪我したらいけないから、タティはここで待っててよ」
「いえ、そうではなくて、アレックス様がお怪我をしてはいけないという意味です。
アレックス様に少しでも怪我をさせるようなことがあれば、わたしが伯爵様に叱られてしまいますわ」
「タティが怪我をしたら僕が運んで帰れると思うけど、僕が怪我したら君が僕を抱えて帰るのは無理でしょ?
そのときは、誰かを呼びに行って貰わなくちゃいけないから、タティのほうが怪我したら困るよ」
「アレックス様、それではあべこべですっ」
「まあまあ、いいから」
僕はそう言いながらタティを制すると、ブーツを脱いで、裸足になって、ズボンをたくし上げて小川の中に足を踏み入れた。
川の流れは見た目の通りに緩くても、深さは思っていたよりはあったみたいで、脛の辺りに流れていたはずの水位は川の中心に進むに連れてすぐに膝上にまで嵩を増した。
水温も、昼下がりのものとは思われないくらいひんやりと冷たかったけど、まだまだ日中の気温は高く、この日も歩いているだけで軽く汗ばむような陽気だったので、それはかえって気持ちがよかった。
僕は清流の中のトマトのすぐ前まで難なく歩いて、それからタティを振り返って手を振った。
「おーい、タティ!」
「アレックス様、どうか、どうかお気をつけてくださいませっ。
ああ、お足もとから注意をそらさないでっ」
すぐそこの川岸で、小さなことで慌てふためいて僕を心配するタティが、僕は今日はちょっと可愛いと思っていた。細い指先を口許に添えて、僕のことではらはらしている様子は、遠目にもなかなかキュートだった。
「へいき、へいき。もう、タティは心配性だなあ、あっ、わっ!」
けれどもそう言った傍から、僕は足の裏の滑る石を踏みつけ体勢を崩して、ほどなく水の中に尻餅をついてしまった。ぐらりと視界が揺れて、それから激しい水音と共に青空に届きそうなほど豪快に水飛沫が跳ね上がり、僕はそれを被ってびしょ濡れの濡れねずみになった。それでタティは自分のスカートが濡れるのも気にせず大慌てで水の中に走ってきたけど、僕は何だか楽しくなって声をあげて笑ってしまった。
「アレックス様っ! お怪我はありませんか!?」
タティは僕の側まで来ると、僕の水滴のしたたる金褐色の髪を撫でつけ、それからハンカチを取り出して僕の目や顔全体を丁寧に拭ってくれた。
「うん、大丈夫。あははっ、滑っちゃったよ。失敗、失敗」
「もうっ。アレックス様ったら。だからわたしが取りに行くって言いましたのに」
「だってさ、紳士は女の人にこんなことさせないものだよ。
タティは鈍いとこあるから、きっと転ぶと思ったしさ」
「でも、転ばなかったかもしれませんわ」
タティはそう言って唇を尖らせながら、僕の腕を取って僕を水の中から救い出そうとした。
でも水を吸った僕の衣服が重いのか、そもそもタティが非力なのか、僕の身体は少しも浮かび上がらず、代わりに間もなくタティが僕の上に倒れて来た。
再び派手に水飛沫が上がり、頭から水面に突っ込んでしまったタティがずぶ濡れになったのを見て、僕は可笑しくてまた笑ってしまったんだけど、ふと見ると、目の前にいるタティが、タティじゃないみたいであることに気がついて息を飲んだ。
髪留めがはずれたんだろう、いつも後ろにまとめてあるだけの洒落っ気のない黒い巻き毛がタティの肩や背中にこぼれ出し、これまで考えたこともなかったロマンティックな雰囲気を彼女にもたらしていたし、それに、それに何より……。
「すみませんっ、あのっ、わたし、眼鏡が……」
そう言って、情けない顔で手探りをするタティの顔が、予想外に可愛いことに驚いて、僕は彼女のことを半ば呆然と見つめていた。
子供の頃からずっと分厚い眼鏡をしていたから全然気づかなかったけど、タティは、実はかなりの美人だったのだ。それも相当甘くて優しい、男好きのするベビーフェイスだった。
それに僕はふと、別に変な気持ちがあったわけじゃなかったんだけど、タティが転んだ拍子にどこかへ吹き飛んでしまった眼鏡を一緒に探してあげようとして、計らずも彼女の胸元に釘づけになった。
タティは今日も、いつも通りの無地の白いブラウスを着ていたんだけど、それが水に濡れて、彼女の肌に張りついて、童顔にはそぐわないほど大きな胸の形がはっきりと分かってしまっていたんだ。それで僕は何と言っていいのか……、とにかくしばらくの間、視線がそこから動かなかった。
「眼鏡がないと……」
タティが、眼鏡を探すのに必死になっていて、僕が彼女の正体に激しく動揺しているということに、まったく気づかないでいてくれることは幸いなことだった。
さもないと、僕が彼女の瑠璃色の大きな瞳や、可愛らしい顔立ちや、豊満な胸や、他にも身体のラインの端から端までをこれでもかと言うほど凝視していたことをもし彼女に知られてしまったなら、きっと気持ち悪い奴だと思われて、今後確実に敬遠されることがうけあいだったからだ。
「は、はい、眼鏡……」
僕は、自分の気持ちが少し落ち着いてから、近くの木の根に引っかかっていたことをとっくに気づいていた眼鏡をようやく掴み取って、タティに手渡してあげた。
するとタティは心から安堵した様子でそれを受け取り、耳にかけ、いつも通りの無邪気な笑顔を僕に向けた。
「ああよかった、わたし、これがないと本当に何も見えなくなってしまうんです。
色くらいは判るんですけど、でも物の輪郭が全然分からなくなってしまって……。
アレックス様がいてくださって、本当によかったわ。
ありがとうございます、アレックス様」
「ううん……いいんだよ、そんなこと。
タティ、立てる? いや、僕が手を貸すから……待ってね」
僕はまず自分が水の中から立ち上がり、足場を確保して体勢を整えてから、水に漬かっているタティに手を差し伸べた。
タティはそれをそっと掴んだんだけど、彼女の手が僕の手に触れた途端、僕の心臓がそれまでよりもずっと激しく早鐘を打ち出してしまい困ってしまった。こんな変な感じを、僕は今まで味わったことがなかったからだ。
昔シェアに憧れていた頃、僕は彼女を見るたびにこれに近い感覚や気分を味わっていたことはあったと思う。だけどそれはいつでも優しくて、夢を見ているようで、ここまで強烈なものではなかったんだ。
気がつくと僕は、握っていたタティの手を引き寄せ、彼女を自分の腕に閉じ込めていた。
どうしてこんな大胆なことをしてしまったのか、敢えて説明をするとするなら、それはいま僕が彼女のことを愛しいと感じていることを、何だかタティに伝えてみたくなったとしか言い様がなかっただろう。
こんなことを、僕はこれまで一度も考えたこともなければ想像してみたこともなかったんだけど、そのときの僕はなぜだかタティが愛しくてたまらなかった。
その気持ちのままに彼女の身体をぎゅっと胸に抱きしめると、密着するタティの柔らかな髪と、もっと柔らかな彼女の身体の感触は、思った通り僕に幸福感を与えてくれるものだった。
ところが、僕はタティが恥ずかしがることはあっても、でも絶対抵抗なんかしないだろうと思っていたのに、彼女は僕の腕の中にいることを嫌がって、遂には僕を突き飛ばしてでもそれを拒否した。
「タ、タティ?!」
僕は心底驚いて、彼女を見やった。
再び水の中に尻餅をつくなんて最悪にみっともない事態にはならなかったにしても、予想外の彼女の拒絶は、僕の心身にとてつもなく重く響いていた。
「どうして??」
僕は、女性の同意も得ないで勝手に彼女に触れた男の台詞としては考えられないほど頓珍漢な言葉を口にしていた。
「わたしのことを好きじゃないのに、なぜこんなことをなさるのですか?」
タティは、両腕で胸の辺りを庇いながら、震えながら僕に抗議の視線を向けていた。
あの仕草が心理的な拒絶を意味していることを何かの本で読んだことのある僕は、更に驚いて慌てて言い訳をした。
「そんな……つもりじゃないよ。
僕ね、タティのことをすごく可愛いって思ったんだ。それにね」
「そんなの嘘です。わたしが可愛いなんて。
アレックス様だけは、こんなことをなさらない方だと信じていましたのに……」
「嘘じゃないよタティ、どうして嘘だなんて思うの?
ね、落ち着いてよ。そして自分の姿を、鏡で見てみたらいい。そうすれば僕が言っていることが、タティにだって分かるはずだから」
「いいえ、嘘です。嘘です。
だって……、アレックス様の心の中には今でも誰か特別な女性が棲んでいて、貴方が毎日のように彼女を想っていることを、わたしは知っているんですもの。
繊細で情の深いアレックス様だからこそ、あなたが彼女を手放すことなんて、絶対にないって知っているんだもの。
エステルさんという方が、アレックス様のことを裏切ったことはいけないことだと思うわ。
彼女がしたことは、非難されて当然の行いだわ。
でも……彼女が気づかなかったとでも思っているんですか?
アレックス様の心に他の特別な女性がいることを、貴方がいつもその人を想っていることを、彼女が一度も気がつきもせず、傷つかなかったとでも思っているんですか?」
「タティ…」