第119話 恋の成就は程遠く(1)
ドアのところで揉み合っていた僕らは、どちらからともなく彼女の登場に愕然としていた。
いったいどうやってサンメープル城に入り込んだのかという疑問については、すぐに愚問だと気がついた。彼女の父親であるウェブスター男爵は伯爵家直属の貴族であり、当主である兄さんの側近だ。彼女の立場ならば父親について易々と入城することは可能だった。
もっとも、それでもアディンセル家の人間の生活区域に無断で立ち入って来るというのは、尋常なことではなかった。ウェブスター男爵の実娘という、丁重に扱われる材料があったとしても、厳重な警備を抜けなくては許可のない部外者がここに立ち入れることはないからだ。
いったいどんな理由を使ったのか分からないが、これには彼女の人並み外れた非常識、もとい行動力が垣間見えた気もした。
「いったい、どうやってまたこんなところに……」
ヴァレリアの行動を窘めようとしたらしいカイトに、ヴァレリアはさっそく険しい顔をして噛みついた。
「ちょっとカイト! 何よその反応は!
おまえこそ、今日は朝からわたくしが来ることを分かっていて、避けまくっていたのはどういうつもり!
まったく信じられない無礼者よ。このわたくしが来たら、何か問題でもあるってこと? 迷惑だとでも言いたいのっ?」
呼ばれてもいないのにこんなところに乗り込んで来るなんて、どう考えても問題だったし、迷惑に決まっているのに、その自覚がない彼女の強気に僕は恐れ入った。
「いえ、そうではないですけども……」
「だったら嬉しそうな顔のひとつもしなさいよ。おまえは本当に気が利かないんだから。これだから平民っていうのは駄目ね、無教養で、卑しくて。
ねえカイト。まったく平民風情がいいコネクションを掴んだものね。こうやって好きなだけアディンセル家のお城に入り浸れるんですもの。結構なご身分じゃないの、さぞいい気分なんでしょうね?
本来なら、わたくしがその立場に立つはずだったのに……、女だというだけでこんな野良犬よりも実力を低く見積もられて……!
おまえ、内心ではわたくしを馬鹿にしているんでしょ? 分かっていてよ、そんな殊勝な顔してたって、おまえの考えそうなことくらい」
「いえ……」
「ちょっと。分かっているでしょうけど、わたくしはおまえの吐く息なんか吸い込みたくもないのよ。それに臭いから、あんまり側に近寄らないで頂戴。ほら、退いて!」
お嬢様はそう言ってカイトの胸板に手をやって乱暴に彼を押し退け、勝手に僕の部屋に入り込んで来た。僕はカイトのすぐ横にいたのだが、彼女は僕には注意も向けずにそのまま目の前を素通りした。
しかし僕はヴァレリアを僕の部屋に招待した覚えはなかったので、この訳の分からない展開をヴァレリア本人にではなくカイトに無言で抗議し、彼女を廊下に連れ出すようにと目線で指示した。
ところがカイトはかぶりを振るばかりで僕の言うことを聞かなかった。それどころか、僕に何とかしてくれと言わんばかりの反応を返して来たので、僕は困ってうつむいた。
自己主張の強い女の人のことは、エステルのことでトラウマにもなっていた。しかもヴァレリアの気の強さは率直に言って、もしかするとエステルよりも手強い気がしたのだ。
二人の対決がもしあったら、いったいどっちが相手を泣かせるか……、まあ、そんな恐ろしいものは見たくもなかったが。
そうしている間にも、ヴァレリアお嬢様は長い黒髪を指で背中に流しながら、勝手に僕の居間を歩き、まっすぐタティに近づいて行くのが分かった。
僕はソファのところにいたタティに、急いで奥に引っ込むように指示した。タティは焦っているようだったが、僕の指先の指示に気がついたようだ。
けれどもそれを逃さないとばかりに、タティに近づきながら、高圧的にヴァレリアが言った。
「おまえが噂の芋娘ね。ふふん、何度か見たことはあるけど、相変わらずなんとまあ残念な容姿だこと。
あの生意気なカティス家のハリエットだって、幾らかはおまえより可愛げがあってよ。まあハリエットだって所詮、わたくし以下ですけど。
まったくおまえはあんまりださくて地味だから、わたくし侍女たちと見分けがつかなかったわ……、ねえおまえ、ちょっとお話があるのよ」
「お話……ですか?」
タティが例によってびくびくしたように応じると、ヴァレリアは命令調でいきなり言った。
「おまえ、アレックス様の愛人の座を降りなさい。彼はわたくしと結婚するのよ。
わたくしこれでも良家の頭領娘ですもの。夫に愛人がいるなんて、そんなプライドを踏み躙られる状況には、我慢ができない性質なのよ。おまえも女なら、わたくしの言っていること、分かってくれるわよね」
「えっ…?」
「アレックス様と別れて、さっさと消えろと言っているのよ」
「えっ、そんな……」
「分からない娘ね。このわたくしが、アレックス様の妻になることに決めたとこう言っているのよ。
平民と馬鹿な結婚をするくらいなら、彼のほうが幾らかはましだと気がついたの。何がましかは聞かれても困るけど、そうね、血筋だけは確実にましだわ。だからおまえは今すぐ荷物を纏めてここを立ち去りなさい。お役目ご苦労様。お手当は、アディンセル家からでなく、わたくしの実家であるウェブスター家から出してあげます」
タティが、泣きそうな顔で僕に真意を確かめる視線を向けて来た。
僕は慌てて両手を振って、ヴァレリアの言うことを否定してみせた。そんな話は聞いたこともなければ、誰かの冗談の中にさえ出たためしもないからだ。
「で、でも……、アレックス様は違うとおっしゃっています」
タティが言うと、口許に手をあててころころとヴァレリアは笑った。僕とカイトのいる場所からは、毛皮つきの赤いコートを着た背中しか分からないが、恐らくあんまりいい笑顔なんかではなかっただろう。
「あんな気弱で他愛もない男、これから幾らだって納得させるわよ。このわたくしにかかれば、そんなことは造作もないわ。
でもそれはもうおまえとは係わりのないこと。
とにかくこれは命令よ、おまえは今すぐここを出て行きなさい!」
ヴァレリアが声を大きくし、タティがいよいよ泣きかねない顔をしたので、僕は急いでソファのところに行って、二人の間に割って入った。
「待ってよ、君はいったい何の話をしているんだ。タティに変なことを言うのはやめてくれ。僕は君とは結婚しないよ。タティと結婚するんだから」
僕が言うと、タティが安堵した顔をして僕を見上げた。その仕草が非常に可愛いので、僕は頼りにされて男として気分がよかった。
しかし同時にヴァレリアのほうでは、まるで僕に愛を裏切られたとでも言いたいような、傷ついた顔をした。
僕とヴァレリアは友だちですらないというのに、なんで僕が裏切り者みたいに睨まれなくちゃいけないのか、訳が分からないが、そのままヴァレリアは感情的になって、本当に怒り出した。
「ちょっと貴方! どうしてそんな女を選ぶのよっ! 酷いじゃないのっ!」
「えっ、酷いって何なんだ……」
「アレックス様、貴方はわたくしのことを捨てるおつもりっ!?」
「いや、そういう言い方は……、誤解を招くじゃないか……、まるで僕らの間に何かがあったみたいな……」




