第118話 僕を許してくれる?
やがてタティが、お茶のセットを銀のお盆に乗せた召使いを連れてやって来た。
カイトは言わなければ気持ちは伝わらないなんて言っているが、僕とタティの仲は、そんじょそこらの即席のカップルとは訳が違うのだ。何しろ生まれたときからずっと一緒にいるのだから、僕が何を考えているかを、全部は分からないにしても、それでも大事なところはタティはやっぱりちゃんと分かってくれていると思っている。
少なくともそうあるべきだと思うので、僕はひたすらタティが僕に話しかけるのを待っていた。無視されていると言ってむくれるつもりはもうなく、僕は男らしく、ただ静かに待っているのだ。僕は女みたいにうじうじしていないから、タティの目の前で堂々と待っている。でも自分から話しかけるのはできない相談だった。何故なら、タティに拒否されたら僕はきっと死んでしまうからだ。
「どうぞ、ゆっくりなさってくださいね」
タティはカイトにそう声をかけ、向かい合うソファの真ん中にある低いテーブルで、白い陶器のポットからカップに丁寧にお茶を注ぎ始めた。香ばしい香りがいっそう漂い、カイトがその香りを鼻で追いかけていた。
僕はぶつぶつ言いながら、ソファの隅っこでカイトが持って来た円柱のお菓子の缶を引っ張っていた。タティが僕を嫌がっているかもしれないから、彼女が逃げないように遠慮して、僕はこの部屋の主であるにも係らず隅っこにいるのだ。それにまるで缶が開かない振りをして間を持たせているようにも見えるかもしれないが、実際に蓋が開かないのだから仕方がない。
だからタティが僕に話しかけてこないのは、僕が缶を引っ張るのに夢中になっているからで、僕がタティに嫌われているということにはならないのだ。
「やあ、美味しいです。いい香り」
カイトはお茶を一口飲むと、カップを軽く上にあげて、タティに愛嬌を振りまいていた。
彼は殊にプライベートな空間では、女主人の機嫌を取っておくべきだということを分かっているのだろう。
「よかった、これ、実家から送って来たもので……」
タティがお茶の説明や淹れ方の手順を、頭を寄せてカイトにしている間も、僕は一人で孤独に開かないお菓子の缶と格闘するはめになっていた。
タティはカイトに構っている暇があったら早く僕に関心を向けるべきだし、お菓子の缶が開かないことに気づいてどうしたのかと声をかけるべきなのに、本当に変なところで意地っ張りな性格はよくないと思った。女とは、僕に親切でなくてはならないのだ。
「安物だな」
タティは話しかけてこないし、缶もびくともしないので、遂に僕は文句を言った。
「長期保存用です」
しれっとした顔でカイトは軽口を叩いた。
「遠征軍御用達。マッチョな容器です」
「まったく変な物を持って来るなよ、ここを何処だと思っているんだ」
「アレックス様もたまには身体を鍛えるべきだと思ったんですよ。貴方、男らしくありたいんでしょ?」
「何を」
すると、タティが僕を見てくすくす笑った。
それを見て、僕は途端に情けない顔になり、それから恐る恐るもう一度タティを見た。マリーシアにのぼせあがって、結婚しなくてもいいなんて言い放ったり、意地悪したり、それだけのことをしたのだから当然だったし、覚悟だってないわけではなかったが、それでも僕は彼女に拒絶されるのが恐くて、ずっとタティの目を見ることができなかったのだ。
でも目があうと、タティはいつもみたいに僕に優しく微笑ってくれた。
「タティ、あの……」
僕はなんて言っていいか分からなくて、手を伸ばしてタティの手を握った。
「あの、僕ね……」
「はい……」
タティはそれを振り払ったりしなかった。僕らはただお互いを愛しく見ていた。言葉なんて、必ずしも必要じゃなかったのだ。
それで、それまでのささくれ立っていたような気持ちが一瞬にして引っ込んだ僕は、とても嬉しい気持ちになり、取り敢えずタティにすごくキスがしたかった。だからそのままタティをみつめ、僕としてはそうしようとするところだったのだが、身を乗り出して顔を近づけたところで、どうしたことかタティがそれを嫌がるみたいに慌てたので、僕は血の気が引いた。
一瞬、僕のことを拒否するつもりなのかと冷たいものが胸の中を満たしたが、タティはどうも過剰に恥ずかしがっているだけのようだった。
「どうしたの? 僕が嫌い?」
「いっ、いいえっ」
僕の質問に、タティはものすごく熱心に首を横に振った。と言うことは、彼女は僕が好きだということだ。
初めてキスするのでもないのに、こんな純情な反応があるだろうか? 恥じらいのある女とはいいものだ……、僕はそういうのはかなり好きだった。
だからまたタティにキスしようと顔を寄せたのだが、タティは顔を真っ赤にして僕に抵抗した。僕の肩を触って、頼りなくいやいやをした。
「タティ、恥ずかしいの? 恥ずかしいなら目をつぶって」
「アレックス様……、でも、でも……」
タティは眼鏡の向こう側から潤んだ瞳で何かを僕に訴えかけていた。
大人の男であり、紳士でもある僕は彼女の言わんとするところを的確に理解し、僕の肩に触れていたタティの左手を指輪ごと握ると、彼女に囁いた。
「分かってる。もっと高い宝石を買ってあげるよ。ドレスも、髪飾りも、靴も。君に嫌な思いをさせたおわびに、何でも好きな物を買ってあげる。タティが欲しい物を、欲しいだけプレゼントしてあげるよ」
「アレックス様、いえ、そうじゃなくてっ……」
「遠慮しなくていいよ。僕は最近、女心が分かるんだ」
「で、でもっ」
「タティに何でも買ってあげる。お菓子でも指輪でも何でも。でもキスが先だよ」
「みんなが見ています……」
タティは弱った顔をして、上目使いに僕に言った。
僕はそこでようやく、この部屋の中には常時数名の召使いや、カイトがいることを思い出した。我が国ではそれがたとえ夫婦であれ、人前で唇にキスするなんて、とんでもなく大胆で、勇気がいることだ。勿論、良識ある人々からは確実にいかがわしいと眉を顰められること請け合いの恥ずかしい行為なのだ。
もっとも僕からすれば、召使いなんていうのは人格を意識する対象ではなかったのだが、タティからするとそうもいかないのだろう。
僕はそれほど周りが見えなくなっていたつもりはなかったのだが、タティと二人だけの秘密であるべき一連のやり取りを、彼らにまんまと観賞されてしまったわけだ。
僕は振り返って、この不届きな連中全員を次々と睨んだ。
それによって召使いたちは蜘蛛の子を散らしたように逃げて行ったが、カイトは素知らぬ顔で引き続きとぼけた。
「最近は女心が分かるんですか? すごい」
彼は両手を広げて微笑んだ。
この男は、本当にふてぶてしい、いい度胸をしているのだ。
僕は開かない缶をテーブルに投げ出し、早急にカイトに言った。
「君、そろそろ帰っていいよ」
「ええっ、またそんな。まだいいじゃないですか」
「駄目だよ」
「何だったら半刻ほど別のお部屋に行ってますが」
「いや、自分の部屋に帰ったら?」
「貴方が俺を呼んだんですよ」
「でももう帰っていいよ」
「まだ何もしてないのに。三人で遊びましょうよ」
「脛毛を毟ったろう? 十分だ」
「だって、今日も雪なのに俺の部屋には暖房がないんですよ。この時期、休日はいちばんきついんです。だって真冬ですよ。俺、あの部屋にいたら凍死しちゃうかも」
「ストーブくらい買えばいいだろう。それか、家を一軒借りたいって言うなら、金ならいつでも融通してあげるよ。とにかく邪魔なんだ」
僕は言った。
「邪魔!? 親友を追い出すんですか?」
カイトはカップを持っていたが、僕はカイトの腕を持って彼を立たせた。
「前から思ってましたけど、アレックス様、男に相当冷たくないですか?」
僕はカップを持ったカイトをそのまま部屋の出口へ向かって追い立てた。僕の頭の中は、取り敢えずタティにキスして、それから彼女を寝室に連れ込むことで占められていたのだ。
アディンセル家に纏わる罪業、あの恐ろしい話を聞いていてなお、そのときの僕にはまだ、いまいち当事者意識がなかったと言っていい。となれば、午後の予定は決まったことだし、カイトなんかと遊んでいる暇はなかった。
「じゃあまた月曜日にね」
僕は言いながら、部屋の扉の取っ手に手をかけた。
「ねえ、この世界に愛は存在しないんですか? 梟の雛は愛に飢えて今にも凍えかけているのに。この哀しい鳴き声が貴方には聞こえないんですか? ぐすんぐすんっ」
未練たらしく非常に鬱陶しいことを言いながら、しつこく泣き真似をするカイトの背中を押して、彼を廊下へ放り出そうと扉を開くと同時に、しかし思いがけない出来事が起こった。
「ここねっ、ここにいるのは分かっているのよっ!」
ヴァレリアお嬢様が乱入して来たのだ。




