第117話 親愛なる君
カイトに上手いことを言われて機嫌を直したタティがまた向こうに戻ってしまったのを確認してから、僕はカイトの無能さに文句を言った。責任転嫁ではない、これは純然たる事実だからだ。彼は僕とタティの仲に関する切なる依頼を達成していなかった。
「仲直りできてないじゃないか」
カイトはそれを理解するように何度か頷いた。
「僕は怒ってるんだぞ」
「アレックス様の異性に対する対応が、十歳児並みということを想定できなかったんですよ」
「何だよそれっ。僕を馬鹿にするのか」
「いや、馬鹿にゃしてませんけどもね。頭がいいんだから、もうちょっと上手に立ちまわれないものなんでしょうかね。
まあ、それと言うのも閣下に猫可愛がりされてお育ちになったせいなのかもしれませんね」
「兄さんの何処が猫可愛がりだ。いつも無茶苦茶言ってるし、偉そうだし、僕のやることに口出しするし、でも僕が兄さんに何か言っても子供は黙っていろで終わるんだ。兄さんほど自己中心的で身勝手で冷酷な人間もいないよ」
しかしカイトが引き続き呆れたようにして僕を見ているので、僕としても確かに自分の対人能力の低さには自覚があり、自分のとても苦しい胸の内を、まるで頼りない言い訳のようにカイトに打ち明けた。
「仕方ないだろう、だってタティが悪いんだ。タティが僕に話しかけてくれないからだよ。タティは僕を嫌いなんだ。だからどうしていいか分からなかった。今だって、悪気があって黙っていたんじゃないんだ、ただタティはさっきから、カイトにばっかり優しくしてる……」
「そりゃ貴方が話しかけないからでしょ。彼女もどうしていいんだか分からないんですよ。話しかけて冷たくされたらどうしようって顔してるじゃないですか。きっと貴方がまだマリーシアに夢中だと思っているんだろうし」
「でも僕はもう、マリーシアのことは忘れるって決めたんだ。タティと結婚だってするんだよ。もう二度とこの気持ちが動くことはないだろう。それなのに、どうしてタティはそれを分かろうとしないんだ?」
「そら…、言わなきゃ分かりませんわな」
ソファに座った格好で、カイトは頬杖をついて僕を見上げた。
その態度がちょっと偉そうだったので、僕は嫌味を言った。
「君、そんなに女心が分かるのはどういうわけなんだ? 男娼だったのか?」
それで、カイトの表情が一瞬固まった。もしかしたら、また僕の胸倉を掴みたくなるような、あんまり触れてはいけない話だったのかと思って僕は内心で慌てたが、どうして主人である僕がカイトなんかを怖がらなくちゃならないのかと思ってすぐに気を張った。
するとカイトが苦笑した。
「いえね、あれはデマ」
「デマ?」
僕が言うと、髪を撫でつけながらカイトは頷いた。
「養子の俺に対する悪意ですよ。アレックス様なら知っていらっしゃるでしょうが、上位伯爵である上に、あんな強いご性格の閣下に口を利ける未亡人なんて、領内にゃいやしませんよ。国内にだって僅かでしょう。
それにあの方が、人事について女に口出しさせると思いますか? 貴方にさえ、そんな権限は未だほとんど与えていないっていうのに。まして女に斡旋なんかさせません。
まあ、依頼主が公爵夫人辺りだって言うなら話は別でしょうけど、それだって余程弱みを握られているか、惚れているかしなけりゃ無理ですよ。まして、俺が愛人になって取り入れるような範囲のご婦人にそんな権力をお持ちの方はありません。だから、俺が男娼っていうのはあれはデマです。
十四まではウェブスター家でご存知の通りだし、その後はアレックス様にお仕えしながら昼夜詰め込み勉強をして、俺が買われたのはそもそも剣術でしたから当然閣下に見放されまいと武芸の修練、ときどき赤楓騎士団の遠征にも参加しなけりゃなりませんでしたし、さすがに誰かの愛人をやってる時間はありませんでした」
「つまり、やっかみか……」
「たぶんね」
カイトは僕を見て片手をあげた。
やがて僕は静かに納得した。
「そういうことなら、これはさすがに酷いな。君に対する酷い名誉棄損だ。エステルが知っていたということは、かなりの範囲に広まっている話ってことになる」
「ま、でも成り上がりの平民ってところは当たってますからねえ……。平民なんてものは、普通まともに相手になんかされやしませんから。
三代前に男爵家のお坊ちゃんがいたとしたって、もし俺が彼の男系男子じゃなけりゃ、今頃は農作業でもやっていたかもしれない。自分たちの邸で使っている、家畜同然の召使いたちと大差ない出身の人間が、自分より取り立てられているのが許せないって心情は、俺としても理解できますしね」
半ば他人事のようにカイトが呟いた。
「疑うわけじゃないけど、どうして君がその子孫だって分かったんだ?」
僕がたずねると、カイトは腕組みをした。
「彼の形見の品が我が家に残っていたことと、貴族様が駆け落ちして来てあそこに住んでるなんてことをいつまでも憶えている村落の老人の証言……」
彼の表情は断然自信がなさそうだった。
「だから実は全然関係ない、赤の他人っていう可能性を拭えないです。形見の品があるって言っても、厳密には確実な身元の証明にはならない。俺が件の駆け落ち三男の子供ってんならともかく。俺はその曾祖父の顔を見たことさえないですから」
僕は頷いた。
「それで君は自分が平民だなんて言ってるわけか。変なところで律義と言うか、図々しくないんだな」
「何たって八分の一ですからね。もっと貴族の血が濃くたって、平民とみなされてる人間は世の中にゃいるでしょうし。例えば金持ち商家に嫁いだお嬢さんの子供とか、どんなに生活が豊かだろうと、彼らは区分けとしちゃ立派に平民ですからねえ。
だから……もし違っていたら、俺、首を刎ねられちまうかな」
「でも違うという証明もできないんだし、仮に間違えていたとしても、それはデイビッドが間違えただけで当時子供だった君に責任はないと思うんだけど……」
そうはいかないのがこの社会だ、という言葉を飛ばして、僕はこう続けた。
「でも幸いと兄さんは君を買っているようだし、僕もその考えには賛成だ。君の身柄は僕が引き受けているので、悪いようにはしないから大丈夫」
カイトは息を吐いた。
「ほんと、アレックス様ってのは上流貴族様にしちゃ珍しい温和な方ですよな。
俺は貴方に出会って本当に人生が変わりましたよ。待遇もそうだし、本当に……、俺は貴方の幸福のためならいつでもこの生命を捧げられます」
「嬉しいね。嬉しいけど……、僕は君には自分の幸福を追求して欲しいよ。君の家族の分まで」
僕はそう言って、カイトを見た。
するとカイトはぽかんとして、それから酷く居心地が悪いような、困惑したような顔をした。
「アレックス様、そういうことを、普通偉い人は手下にゃ言わないもんですよ。俺は貴方の手駒なんです。いざとなったら、俺を切り捨てるくらいのシビアな気持ちを持っていて頂かないと」
「うん、でも親友だからね」
「親友?」
カイトは不意に僕に明るく微笑みかけた。
僕はちょっと照れ臭くなって兄さんを引き合いに出した。
「兄さんも言ってるじゃないか。僕らのこと、仲よしグループとか親友とか。
兄さんは人づきあいが好きなのか得意なのか知らないが、とにかく交際関係が手広いからね。僕に友だちが誰もいないっていうことが、理解できなかったんだろう。納得できなかったと言うか。だから無理やり僕にカイトは友だちだって刷り込ませようとしていたところがあったと思う」
「ふむ」
「だから……、勿論、今では僕もそう思ってるよ」
「親友って?」
「うん」
「それはすごく…、ああ、アレックス様がご自分でそんなことを言ってくださるなんて、こりゃ八年もお仕えしてきた甲斐があったってもんですよ。俺、泣いちゃうかも」
「まったく君は大袈裟なんだ」




