第116話 上手く言えないんだ
僕はタティに背中を向けたまま、彼女のことを見ることができずに少しの間カイトの脛毛を毟った。
僕はカイトを構いながら、意識のほとんど全部が背中のほうにいるタティに向かっていて、僕はタティが僕に声をかけてくれることを今か今かと待っていたが、いつまでも声はかからなかった。
僕の部屋の絨毯の上にカイトの脛毛が散らばるのは気持ち悪くて嫌だったので、横のテーブルに毟った脛毛を並べていたが、やがて何も言わずにタティが立ち去ってしまうと、僕は悲しくなって脛毛を毟る手を止めた。
本当はタティと話したいのに、タティとどうやって仲直りしていいか、僕には分からなかったのだ。
この社会に浸透している理想的な男というもののイメージ像が問題なのだと、僕はそれがまるで別の問題であるかのような難しい言葉をして、少しの間その問題をカイトと議論した。
つまり男とは常に積極的で、能動的で、責任を引き受けることを喜びとする人格と、どんな逆風にも立ち向かう力強さがなくてはならないという固定観念があることが問題なのだ。
僕らはある一定の年齢に達すると、誰からも、個人が属するどの集団においても完全であれと要求されることになる。その通りに出来る男はいい、兄さんのように強気で、最初から人より何でも上手に出来るようなタイプの男は――、だがサンセリウスは男性社会である一方で、出来ない男には容赦がない。男性とは優秀で当たり前という、ある意味では非常に寛大でない、一方的な価値観を押しつけられながら生きなければならないのだが、誰もがその通りに振る舞えるわけじゃない。
それでも人々が抱く理想的な男のイメージ像からはずれることは、即ち恥ずかしいことであり、駄目な男であるというレッテルとなってしまうのだ。
男が弱かったり駄目だったりすることは、あってはならないことだという狭量な思想が、この社会には蔓延っているのだ。
そしてそれがときに僕のような性格の男を追い詰めていると、僕は主張した。
カイトは言いたいことはお見通しだという顔をしていたが、彼のいいところは他人の心情を慮って発言を自粛できるところだ。
でも詰めは甘かった。
「どうせなら異論があることも顔に出すなよ。得意だろう、とぼけるのは。それだと、まるで僕が格好悪い言い訳しているみたいじゃないか」
僕は言った。
「ちょっと勇気を出して話しかけたらいいだけのことなのに、なんでそう他愛のない問題を、何と言うか壮大にしてしまうのかと思いまして」
「失敬な。思慮深いと言ってくれ」
僕が注文をつけると、カイトは恨みがましく僕を見た。
「それにしたって。ご自分の毛を毟りゃいいじゃないですか。まったくもう……」
カイトは脛毛を毟られた自分の左足をさすって文句を言っていた。しかし、文句を言いたいのは僕のほうだった。
「君、なんでタティとの仲を取り持たないんだ」
僕は小声で言った。
「せっかく呼んだのに」
「ええ? アレックス様……、そんなことを期待して、俺を呼びつけたんですか?」
「それ以外に、休日に君を部屋に呼ぶ理由が何処にあるんだよ」
「魔法銀製の防具を見せてくれるって言うから。友情を深めたいのかなと」
「それは君をおびき寄せる餌だよ。君も空気を読むべきだね」
僕が言うと、カイトは僅かに苦笑してから何とも言えない顔で絨毯の上にいる僕を見下ろした。
「アレックス様、あのね」
その表情から、カイトが兄貴ぶったことを言おうとしていることが分かったので、僕は警戒した。
カイトは息を吐いた。
「やれやれまったく……、仲直り、手伝って欲しいんですか?」
僕は頷いた。そういう当然のことを、カイトはもっと早く分かるべきだった。
するとカイトは奥のほうに行ってしまっていたタティのことをいきなり呼んだ。まさか、幾ら何でも何の前置きもなくいきなりタティを呼ぶとは思わなかった僕は慌てて立ち上がり、どうしようかとあたふたしているうちに、すぐにタティが側までやって来てしまった。
カイトは笑顔で僕を急かしていたが、僕は何も準備ができておらず、そのせいですぐ側に来たタティの顔を見ることさえできずに、彼女に背を向けてその場で黙ってうつむいた。
カイトは僕のことをつついたり、ちらちら合図を送っていたようだったが、気の利かない取り持ち方が腹立たしくて、僕はそれに応じなかった。
「タティ、アレックス様がね、貴方にお話があるんですって。ちょっと聞いてあげて貰えますか?」
カイトは僕に何を期待しているのか、勝手なことを言い出したが、そんなことを急に言われても、何を話していいのか分からないので僕は黙っていた。
だいたいタティが僕に話しかければいいのに、そうすればすべて解決するのに、タティが僕のことを無視しているのが悪いのだ。
カイトがまた僕の肩をつついたが、僕は彫像のように動かなかった。
「ああっと、えー、なんかちょっと照れているみたい。ねっ、恥ずかしいんですって」
やがてカイトは場を誤魔化すように言った。
でも僕は恥ずかしいわけじゃなくて、何を話していいか分からないだけなのに、そういう解釈の仕方はとても間違っているし、ともすればタティに僕が幼稚な男だという誤った印象を与えかねない。僕に対する礼儀に欠いていると思い、僕はむっとした。
すると今度は、カイトは僕の耳元に口を寄せて言った。
「何でもいいから、普通に接したらそれでいいと思いますよ。無視されてるなんてのは、アレックス様の思い込みですよ。タティはつんけんして口をきかないような、そういうことをする子じゃないじゃないですか」
「……」
「男なら、やっぱりここは貴方からいかないと。理想的な男のイメージ像が悪いったって、じゃあ貴方、弱気でうじうじする男が理想かって言うと、そうでもないんでしょ?
そうやって背中を向けて拗ねていると、貴方がタティを拒否しているように見えているんですよ。アレックス様ね、長身男が周囲に与える威圧感について自覚したほうがいいですよ。只でさえ人を寄せつけないオーラが全開なのに」
カイトは小声で何かくだらないことを言っていたが、そんなことに気をまわしている暇があるならさっさとタティと仲直りさせてくれればいいのだ。僕に説教するなんて無駄なことをするしか思いつかないなんて、結局役立たずだった。やっぱりカイトはもてないというのは本当なのだろう。
「んんー、タティ、できれば貴方から何かアレックス様に……」
やがて場には気まずい沈黙ばかりが多くなり、対処に困ったというような顔をして、カイトはタティを振り返った。
「いいえ……、わたし、全然気にしてませんから……」
「あ、そうです? うん……」
タティが僕と話す気がないと分かって、僕は悲しくなってますます下を向いた。
「きっと恥ずかしいだけなんです」
背中のほうで、カイトがタティに言い訳をしていた。
「あんまりそうは見えないかもしれないですが、アレックス様は、貴方と仲直りしたいそうですよ。仲直り……、そう、いえいえ、ほんとですって。この方はそうなんですよ、なんでしょうねえ……、しょっちゅう男としてなんて言ってるのも、ありゃ威張りたいんじゃないんですよ、そこを察してくださると……、ええ……」
カイトとタティは小声で何か話していたが、タティはほとんど相槌をうっているのか、あまり声がしなかった。
昔から僕がこういう態度を取っていると、兄さんとか、カイトとか、ジェシカとかは必ず僕をちやほやするのに、そう言えばタティにはあんまりこのやり方が通じないことを思い出した。
カイトは今は僕よりタティをちやほやするのに一生懸命になっていた。泣くことじゃないんですよなんて、焦っている声がしていた。
彼はさっきまでタティが座っていたソファの席に置いてある包みを指差すと、一段と愛想よくタティに話しかけた。それはカイトがさっき部屋に来たときに、持って来た焼き菓子の包みだった。傍目からはお菓子が好きなタティの機嫌を、食べ物で釣っているのがよく分かる態度だった。
しかしタティはなんと単純なことか、彼の口先の話術に乗って割と簡単に気をよくしているような態度を見せ始めた。
そうして話題は僕とタティの間を取り持つという、この重要不可欠な案件とは係わりのないまったく別の内容になってしまい、カイトはタティにまで臍を曲げられてはたまらないとでもいうように、タティをちやほやするのに終始した。
「じゃ、タティ、あの、アレックス様のことは本当に何とか……、さっきも言ったと思いますが、おみやげ、お茶うけに食べましょうね」
小さな両手を頼りなく胸のところに持ってきて、カイトになだめられている不安そうなタティの様子を横目で見て、僕は自分があれと同じことをやっているのではないだろうかと、ふと考えたりもした。




