第111話 迫り来る伯爵
アディンセル伯爵家は国王陛下より賜る六つの領を領有し、地方領主として比較的多くの権限を授かっている。もともとアディンセル家は建国当時から存在する古参の家柄だからだが、兄さんの代になってその発言力は更に増した。王宮では多くの貴族たちによる派閥が存在し、兄さんは言わば最大派閥であったウィシャート公爵派だったからだ。
ウィシャート公爵がそんな強い力を持っていたのは、彼が華麗な血筋によって裏打ちのなされた現王の甥であることによる。
今でこそフレデリック王子を擁立する大きな派閥ができあがっているのだが、それは本当に近年になってからのことなのだ。
まるでウィシャート公爵に王統を乗っ取られまいとする陛下の苦肉の策のように生まれたフレデリック王子殿下は、母親が王女の侍女という、曰くつきの出生歴を持つ。
婚姻を経ずに生まれた子供は、我が国では神への敬虔と愛によってではなく、汚らわしい姦淫による交わりの結果であるという思想から軽蔑対象となり易いが、それは王の子供であっても例外とはならない。勿論、そこには婚姻を経ずに子供をもうけた女に対する侮蔑が大きな要因として加算される。
もっとも父親に権威があれば、そして彼の庇護下に置かれている場合、父親に遺棄されるような子供ではない証明となり、成長によってそうした蔑視は比較的薄らぐのだが、幼少の時分には……、幼児と母親はとかく同一視されがちなものだ。
しかも陛下が溺愛されていたフェリア王女の侍女に、国王陛下御自身が手をつけたということだ。娘の侍女に――、それはあたかも陛下が、その哀れな侍女をフェリア王女の身代わりとした結果なのではないかと、かつての近親相姦の時代もあいまって、暗い憶測と嘲笑が、妾腹の王子殿下に向けられる時代は続いた。
それがどれほどの不遇かと言えば、おいたわしいことに、フレデリック王子は国王の嫡男でありながら、王太子を名乗ることが許されていなかったほどだ。
そうした彼への軽視が、王子殿下の御身が取るに足らない、価値のないものだとされることが、実は殿下のことを護っていたという側面もあるにせよ。
だが下賤腹の幼い王子も、来年には御立派に成人を迎えられる若き王子となった今、その見方は変化しつつある。それがたとえ売春婦の産んだ私生児であっても、成人男子を一人前の人格としてみなさないことはないからだ。
不当に苦境に置かれた者が必ずしもそのまま苦しみの中に置かれることはなく、状況は変化をするものだ。
「ウィシャート公爵様のご容体は、その後どうなったのでしょうね」
ウェブスター男爵、立派な顎髭を蓄えた黒髪の男が言った。貴族の男子としては体格がいいほうではない。カイトやヴァレリアを見る限り、きつそうな目つきはこの家系の色濃い遺伝なのだろうが、デイビッドの場合は人相そのものが悪いようにも思えた。やや頬が削げていて、意外にも色白なためか、五十代半ばの彼の頬にはしみが浮かんでいた。
「大事には至らなかったと公式発表があって以降、表向きにはまるで何事もなかったかのようになっていますが。実際は、かなり酷いことになっていた。とすれば……」
「私が駆けつけたときには、泡を吹いていたよ。せっかくの美男が台無しだった」
兄さんが明快に笑った。
「オーウェル公子のご様子は? 筆頭公爵ともあろうものが、暗殺者を身近に寄せるなど、しかもそのような有様を内輪とはいえ公開されてしまうなど……、私の憶測が確かならば、閣下は早々に取り入る相手を変えておいたほうがよろしいかもしれませんぞ……」
「オーウェルに取り入れと?」
「左様です。今のうち、傷心の公子様にご親切になさっておくが後々よろしいかと。あの子供はかねてより、閣下に懐いておいでではありませんか。現状を考えれば、公子様の更なる信任を獲得しておくが肝要。彼は確か今年十六でしたか」
「今年十七だな。王子殿下と同年生まれだ」
「左様ですか、まあいずれにしろ、彼は若い。閣下も早急に、幼い公爵を意のままに操るためのご算段を。アディンセル家の更なる栄華のために。
しかし此度のことを考え併せると、これは非常にようございました。天がギルバート様の長年のご苦労を御照覧あったのです。トバイアめの目が黒いとあっては、こうはいかんかった。ともかく公爵家直属の連中が、公子様の周りを固めてしまうその前に手を打つのです」
「ふっ、そうだな……」
兄さんは顎を撫で、含みのある笑い方をした。
デイビッドは眉を寄せて、更に話を続けた。
「それにもう一つ懸案が。フィーロービッシャー家の若造めが、しきりにカイトを手懐けようとしているようなのです。奴は自分の派閥にカイトを取り込み新たな権力基盤を作ろうとしている。カイトに私を追い落とさせる気なのかもしれん、あれはけしからん男です。古い序列を何だと思っておるのか」
「ふっ、いいではないか。あいつは姉に血筋の点で引け目を感じている。野心がその発露なのだ。デイビッド、私は無能な人間に用はないが、野心ある部下は歓迎だ」
「閣下」
「何、我が配下間のパワーバランスを壊すような真似はさせんよ。私とてフィーロービッシャー家に権力を集中させることは望まない。ジェシカもクライドもリーダーよりはその補佐にこそ適性があるとはいえ、二人とも能力は低くない。しかもカイトはクライドの救済に恩義を感じて一生それを抱え込む恐れがある。あいつは幼少時の不遇のためか些細な温情でさえ二度と忘れぬ性質だろう。だからおまえはいい加減カイトに地位を与えてやれ」
「閣下、ですが――」
「デイビッド卿。これはサービスだ。アレックスの腹心に相応しい地位と待遇をあいつに与えてやれ。
ウェブスター男爵、貴様は私が二度も同じ言葉を口にしていることの意味がお分かりか。
おまえには男子がおらず、おまえはじきに還暦だ。となればウェブスター家としても今後は徐々にあいつ頼りになるだろう。恩賞を与えずに飼い殺しておけるほど、あれは莫迦者ではないぞ。寧ろ頭は切れる。何より、これはアレックスの権威に係る。いい機会だ」
「は、ははっ、主君命令とあらば……。
しかして我が直系が農奴となる、か……、……ややっ」
そこで突然デイビッドが声を上げたのは、廊下を歩く兄さんが、すぐ後ろにいる僕の気配に気づいていきなり後ろを振り向いたからだ。
「アレックスか! 待ちなさい!」
僕は別に兄さんに用があるわけじゃなく、たまたま僕が廊下を歩いていたら、廊下の十字路のところから兄さんとデイビッドが出て来て僕の前を歩き出したので、僕は彼らの話を聞いていただけのことだった。
「アレックス、その子供じみた態度は何なのだ!」
それなのに、兄さんは僕に歩み寄りながら、さっそく僕を叱った。
「何をむくれているのか知らんが、私に顔も見せに来ず、二週間も一緒に食事を取らないとはどういう了見だ!」
僕は条件反射的に後退りしていたのだが、しかし兄さんがまさかそのまま追いかけて来るとは思わなかった僕は、少し驚いて、それからこれまで歩いて来た廊下を走って引き返した。
「待ちなさい! 返事をしなさい!」
僕は兄さんの言いなりにならないので、待たないし、返事をしないで廊下を全力疾走した。
「どっちが子供だ……」
僕は兄さんを撒いてから、しばらく階段の手すりに手をかけて呼吸を整えた。
伯爵が弟を追いかけて廊下を全力疾走した話は、また新たにこの居城内で語り草となるだろう。三十過ぎのいい大人が、僕を追いかけて来るとは……。
あの上背のあるでかい図体で襲いかからんばかりにこちらに向かって来るのが、どれほど恐ろしいか、兄さんは一度同じ目にあってみればいいと思った。
兄さんは何度も停止命令を発していたが、僕はそれを聞き入れないで城内を走った。僕は日頃あまり運動らしいものをしていないのに対し、兄さんは武芸の修練を欠かさない男なので、もしかしたら息が上がるのは僕のほうが早かったかもしれない。疲労と、伯爵が影のように迫り来る恐怖と闘いながら、どのくらい使用人を掻き分けて廊下を走り、階段を駆け上がったか分からなかった。
そのまましばらく城内を逃げまわった後、僕が兄さんを撒けたのは、兄さんに用があった兄さんの手下か誰かにぶつかって、彼を怒鳴り散らす声が聞こえたのでたぶんそんなところだろう。
もし捕まっていたら何をされたんだと思うと、僕は静かに顔色を失った。
彼はやっぱり何処かがおかしいのだ。
だから僕は、兄さんとは係わり合いにならないほうが賢明なのだ。
しかも思った通り全然落ち込んでないし。




