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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第10章 涙の物語
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第109話 夢や理想を抱え込んで

真冬の季節は続き、僕はエステルが死んでいったあの瞬間の残像が瞼から離れずに、重苦しい気持ちで何日も塞ぎ込んだ。他の誰も理解してくれないとしても、僕はあの酷い日を忘れるために、気持ちを切り替えるために、そのための努力をしていたんだ。

そして人を殺すことを平然と命じて、しかもそれを見て大笑いできるような兄さんの破壊的な人格を目撃してしまったことを。確かに僕の兄さんはずっと前から残酷ではあった、それは勿論分かってはいたのだが、それでもそういう兄さんの一面をも、忘れてしまうために……。

空を飛ぶことが出来ない僕は、穏やかな薄闇の中にこもるのだ。

ベッド脇のテーブルに熱い飲み物を置き、平日の昼間から終日読書に耽る。これはすべて酷い現実を忘れるための努力だ。

そしてときには傷つき倒れた僕を諭しに来たカイトに、当たることもあった。本来であれば兄さんにぶつけるべき憤懣だということは分かっていたが、僕は兄さんの逆鱗が怖くて、彼に直接言うということが、できなかったからだ。


「軍隊ってのは、そういう機関なんです」


すべての現実と部下の鬱陶しい説教を拒否するべく、寝台の暖かな毛布に包まっている僕に向かって、カイトは話していた。

人が本を読んでいるというのに、先刻から勝手にしゃべっているのだ。それに彼は僕に無許可で僕の部屋に入り込んで来ていた。僕の私室の管理者であるタティは、おとなしい性格だし、身分的な問題もあってこのての邪魔臭い人間に対する番人としては機能しない。

それにしたって寝室までずかずか上がり込んだりする奴はそうそういないのだが、この男のことだから、タティに上手いことを言って、強引に入って来たのだろう。


「つまり我々は言わば国家の暴力装置ですよ。我々騎士とは、命令があれば躊躇をせずに人を殺さなければなりません」

「そんなの言い訳だ。君は女子供が相手でもそうだと言えるのか? 赤ん坊や、足腰の立たない老人でも?」


僕は言った。できれば早く帰って欲しいのだが、カイトが何を言いに来たのかということは、一応分かっているつもりだったので僕は少し分が悪かった。


「良心が咎めないのかとおっしゃっているなら、勿論死ぬほどきつい仕事です。

でもどのような内容であれ、命令違反は軍の規律に係わります。閣下の面子にも。そしてそうした行為には常に厳重な処罰がつき纏います。アレックス様、ここでは上官の命令が絶対なんです。貴方がおっしゃっていることは、所詮詭弁でしかない。

いいですか、貴方だからこそあのときあんなふうに閣下に盾突くことをしても殴られることもなかった。でももし俺がそんなことをすれば、俺には軍法会議にかけられる価値もない、あの場で閣下に殺されておしまいなんですよ」

「でも人間には、言葉があるじゃないか。どうして皆、そんな簡単なことが分からないんだ。話し合えば、どんなことだって話し合えば……」

「それは相手によりけりでしょう。エステル嬢が話が通じる女だったなら、そもそも俺は最初から閣下に通報なんてしなくて済んだんです。あの結果を招いたのは、彼女自身の落ち度です。過剰な強欲、それに……、つまり諦めの悪さ。

アレックス様、彼女はつける薬がないほど不誠実だった。貴方だってそれは骨身にしみているはずです。彼女の閣下を愛する気持ちはなるほど確かに真剣で、本物だったかもしれない。でもそれ以外の人間に対する対応こそが、残念ながら彼女という人間の本性ですよ。

よく言うでしょう。恋人ができたら、自分以外の人間に対する態度をよく見ろって。特に召使いとか、店員とか、それほど重要でない人物に対する態度を――、それこそが、その人間の本質だからって。熱い恋愛期間が冷めれば、恋人はいずれ自分にもそれと同じような態度を取り始める。これはね、人間観察の基本ですよ。劣等感の裏返しに、他人を軽蔑してかかるのがあの女の本性だ。自分より下とみなした人間には、どんな侮辱をしても問題がないと思っている」

「だとしたって、君が変な気を利かせるから悪いんだ。何も兄さんに言いつけなくたって、もっと他に方法があったかもしれないのに……」

「あれ以外にどんな方法があるって言うんです? 貴方は言いなりになって結婚を決めちまうし、しかも腹の中にアレックス様の子供がいると喚いているとなりゃ、俺には独断で彼女を排除することができないとくる。

閣下は貴方にエステル嬢の処刑を判断することを、期待していたとおっしゃっていたではありませんか。となれば、いずれ消されていたのです。閣下は恐らく彼女を逃がすつもりは最初からなかったでしょう。

平民女が伯爵家に乗り込んで来て、只で済むはずがないという極めて一般的な常識がない、徹底的なまでの自分本位と言うか……とにかくあの非常識さについては俺も哀れだと思います。周りは誰も彼女に教育をしなかったのかと、正直言って同情を禁じ得ない。

ですがこれはどう譬えたらいいか、まあそう、貴方が王城に乗り込んで、この場合国王陛下とはいかなくても、フレデリック王子に怒鳴り込むようなものなんです。理由は思いつきませんが、とにかく何かの責任を取れと貴方が彼を怒鳴ったらいったいどうなるでしょう。どういうことになるか、簡単に想像がつくと思いますが……、これを実行するなんて恐るべきことだ。

そして彼女が貴方にしたこととは、まさにそういうことなんです。しかもあれはまさに貴方の温和な性格につけ込んだ行為でした。殺されても自業自得としか言い様がない。完全に、誰が聞いても完全に彼女の落ち度です」

「でもっ……、泣いてたのに……」

「アレックス様、貴方はそういう物の見方をしちゃいけない」


カイトは僕の言葉を遮った。


「君は冷たすぎるよっ」

「貴方だってエステル嬢を憐れんでいると言うよりは、自分を憐れんでいるって俺には思えますけどね。自己憐憫。貴方にはそういうところがおありになる。

確かに酷い場面を目の当たりにして精神の均衡を保つのが難しい状態に陥っていたことは分かりますが、それだって何日か前までですよ。先日キャバレーに行ったときのような不安定さは、今の貴方にはもう見られない。

ねえ、本当は彼女なんか、貴方にとってどうでもいい女だったというのが本心でしょう。

だいたい貴方、あのときタティを選ぶのに、躊躇さえなかったじゃないですか」

「どっちかを選べって、兄さんが言うからだっ……」

「そうです。そして貴方はタティを選んだんですよ。必要に迫られたからとはいえ、貴方がご自分でね。貴方にはエステル嬢を助ける選択も許されていたのに、そうしなかったのはご自分でしょう。

それなのにこうやって何日も執務をサボるなんて、さすがにちょっとばかり無責任すぎる。

それとも俺に、お可哀想なアレックス様って、言って欲しいんですか?」

「そんなこと言ってない」

「執務も手につかないくらい、そんなに傷ついてお可哀想にって?」

「違う! 黙れ!」


僕が大声を出すと、カイトは少しの間沈黙した。

頭に手をやって、髪を撫でつけていたが、やがてまた懲りることなく僕に意見を言い出した。


「ねえアレックス様、貴方、エステル嬢がその後どうやって処理されたか、知ろうともしませんよね。おかしいですね。それって、おかしいと思いません? 貴方は彼女の死を悲しんでいるはずなのに。花さえ手向けてあげないなんてね。これじゃあ本当に彼女に同情しているとは思えない」


僕は目をそらした。


「いい厄介払いができたというのが、当たらずしも遠からずというところなんじゃないですか。

貴方は閣下が誰かを処刑するたびに、そうやって泣き叫んでいたりはしないでしょう。大抵はまたかという顔で、そうやって目を伏せて通り過ぎている、違いますか?

閣下が期待されている、純粋で繊細なアレックス様。閣下は確かに貴方をそのように見ておいででしょう。彼はどういうわけか……あの自分にも他人にも厳しい方が、確かにアレックス様にだってときには注意したり叱責したりしておきながら、でも彼は貴方に未熟で幼いままであり続けることを期待している。

しかしいつも身近にいる俺に言わせて貰えば、貴方はそうでもない。特に近頃では、割と現実に即して物を考えていらっしゃる。貴方はちゃんと大人になっているんです。貴方は割り切るということがもうおできになる方だ。だから本心ではあんな女の死なんて、心底どうでもいいと思っていらっしゃるのに、依然として悲劇のヒロイン気取り。

でもアレックス様、そういうのはね、偽善って言うんですよ。知っていましたか?」

「違うっ! 僕はそんなんじゃない、エステルのことを心から悲しんでいるよ!」

「違いますよ。今の貴方はご自分に酔っているだけ。可哀想なご自分に」

「おまえの勝手な解釈を僕に押しつけるな。僕は君みたいに図々しくはないんだ。だからあのことを思い出すだけで、つらくて、つらくて……」

「それで。ではそれが本当だとして、貴方はエステルではなくタティを選んだその選択に後悔があるんですか? 何ならタティが死んだほうがよかった?」

「それは……、でっ……、でもっ、でもっ、死んだ人間をそんなふうに言うなんてっ!

それにだいたいエステルを殺したのは僕じゃない、おまえだったじゃないかっ!」


僕はカイトの言い方が堪らずに、毛布を撥ね上げて怒鳴った。

するとカイトは僕のベッドの脇に立って、僕に話しかけていた口調よりもずっと厳しい顔をして僕のことを見下ろしていた。

僕に注がれているその視線の冷たさに、僕は少し弱気になった。カイトが僕に失望していることが読み取れたからだ。

でもそれも頷ける話ではあった。何しろあの酷い日以降、確かに僕は執務さえ放り出して何日も寝室に閉じこもっていた。


「ええ、そうですよ」


カイトは僕の糾弾を否定しなかった。


「それなのに後悔もない。君は最低だ」

「ええ。殺人ってのは、自分の中で確実に正当化でもしないとね、こんな商売はやってられないんですよ」


カイトは静かに言った。


「アレックス様、貴方はいつもご自分は騎士だとおっしゃっていますが……、貴方にとって騎士とは何なんです? 単にご自分のステイタスのための肩書きなんですか?

だったらこれからはもう騎士だなんて名乗らないほうがいい。

人が殺されるところを目の当たりにして、貴方が苦しんでいること自体は否定しません。俺だって過去に家族が目の前で殺される場面を目撃している者だ、そのお気持ちは自分のことのように分かる。でもこうやってまともに俺と議論できるくらいには気持ちが回復しているのに、貴方の一連の態度は騎士として確実に間違っている」

「違う。分かってるよ。騎士とは国家国民を護る者だ。故郷や家族を護るために戦う者だ。

でもずっと昔に家族を殺されたのと、この間エステルが死んだのを見たのでは、全然痛みが違うんだ。おまえは図太いからどんなことだって平気でも……、僕はおまえなんかとは違うんだ」


僕が言うと、カイトは真顔でそれを認めた。


「ええ、そうです」


カイトは無表情で僕を見て、それから何か言い返してくると思いきや、踵を返してそのまま僕の寝室を出て行ってしまった。

また兄貴風を吹かせて、説教なんかしに来てと思いむかむかしていた僕は、あっさり引き下がられて消化不良を起こした。


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