第106話 冷酷なる伯爵(7)
小娘というのが誰を指しているのか、僕には分かっているつもりだった。
だから僕は即座にジェシカに向かって身を乗り出して叫んだ。
「駄目だっ! ジェシカ、そんなことは僕が認めないっ!」
「畏まりました、伯爵様」
しかし兄さんの騎士であるジェシカは最初から僕の怒鳴り声はまったく無視して、兄さんの命令にだけ恭しく一礼をした。そしてそのまま足早に執務室を出て行こうとした。彼女の中の優先順位が自分の生命よりも兄さんであることは分かっていた。僕は泣き喚きそうになるこのあまりの状況を前に、ただ身体を震わせた。
すると兄さんが言った。
「それが嫌ならそこを退きなさいアレックス。そしてカイトに処断の命令をしろ。
おまえがエステルを庇うのをやめなければ、タティが代わりに死ななければならないよ。何故か? エステルを妻にするなら、タティの存在する意味がないからだ。
アレックス、そうだろう? これは冗談を言っているのではないのだ。
おまえも人の上に立つ人間なら、このくらいの厳しさを持って物事に臨むことだ。どうするね。どちらを取るのか、今すぐ判断しなさい」
兄さんが手をあげて制すると、部屋の出口に向かうジェシカが一時的に足を止めた。僕は、親に自分の言うことを聞かせたい一心で暴れまわる幼児のように、今にも大声で泣き叫びそうになっていたが、そんなことをしても兄さんが僕の頭を撫でてあやしてくれるわけではないことは分かっていた。僕はもう、泣けば許して貰える小さな子供ではなかったからだ。
兄さんは僕にタティかエステルを選択することを迫っていた。それはとても残酷で、考えられないほどひどい要求だった。どちらかを助けるためには、どちらかを見殺しにしなくてはならないだけじゃない、この僕にどちらかを、殺すことを選ぶように言っているのだ。
泣き言が通用しないことは、兄さんの鋭い言葉つきや目つきによって嫌というほど思い知らされていた。しかも悪いことに、突きつけられたこの問題は僕にとって難問でも何でもなく、間もなく僕の頭に冷酷な打算が駆け巡って僕を失望させた。
考え込むことも、迷う必要もなかった。くしくもこの残酷な状況こそが、馬鹿のようにマリーシアに目が眩んでいた僕に、タティが僕にとってどれほど大事な存在であるかということを思い出させる好機ともなった。
恐らく僕は、タティのためならきっととても多くの犠牲を払うことを厭わないだろう。たぶん、今こうして選択を迫られているのがエステルではなく、マリーシアだったとしても、現実にはどんな人柄かさえよく知らない偶像同然のマリーシアよりも、僕は一緒に育ってきたタティを選ぶだろう。もしいま僕の背中にしがみついているのがタティだったなら、僕は自分が斬られることになろうとも、そうしなければ他の誰かが代わりに殺される状況であったとしても、それでも絶対に退いたりしなかっただろう。
でもエステルのことは、そうでは……なかったのだ。
僕はうなだれて、これから自分が列記とした殺人者の仲間入りをすることに恐れおののきながら、がくがくする足を動かしてエステルを守るべく立ち塞がっていた場所から退いた。
「そんなっ……」
エステルが僕に助けを求めているのに、僕はその声を振り払った。
「アレックス様貴方、わたしを見殺しにするのっ……!?
貴方は、わたしが……、その女より価値がないって……!」
「それで、いいんだなアレックス?」
兄さんの問いかけに、僕はうなだれたまま頷いた。
「アレックス様っ! どうしてよっ! どうしていつもわたしばかり大切にして貰えないのよっ!
ねえっ、お願いよ、わたしの話を聞いて、これからは貴方の言うことなら何だって聞く、どんなことでも、ギルバート様よりも貴方を好きになるって約束するからっ、だからっ、だからお願い、わたしを見捨てないでえっ……」
運命に見捨てられたエステルが悲しい悲鳴をあげたが、僕にはどうすることもできなかった。
兄さんが愉快そうに嗤った。
「ふふふ、これはアレックスによる初めての人命に係る決定だな。素晴らしいぞ。
ジェシカ、アレックスはタティを生かしておきたいそうだ。おまえは動かなくていい」
「畏まりました」
ジェシカは極めて実直に返事をした。
「カイト、おまえの主人はエステルを殺せと言っているぞ。アレックスはその売女は目障りなのだそうだ。おまえの忠誠心を示しなさい」
カイトの極めて無感情な返事から間もなく、肉を断つ鈍い音と、聞くに堪えない女の断末魔がして、血飛沫が部屋の中に飛び散り、手を叩く兄さんの歓声が聞こえた。
生暖かいエステルの返り血が近くにいた僕の頬や、服にもかかった。
僕は血の匂いがとても嫌いだったが、それをいつまでも嗅ぐことなく意識が遠のいたことには、エステルの身体から噴水のように血が噴き出すのを、見てしまったというのが大きかっただろう。
でもそれはもしかしたら幸いなことだったのかもしれなかった。
「なんだ、アレックスは気絶したのか? まったく……、この子供の神経の細さはどうにもならんな。
カイト、手間をかけるがアレックスを部屋まで運んで、介抱してやってくれ」
「はい、閣下」
「ギルバート様、これは少し、やり過ぎだったのじゃありませんこと?
それにこのお嬢さん……、とても生命力の強い方だったみたい。母体のエネルギーが強いから、仮に妊娠をしていても――、妊娠初期では、骸骨にはならないわね」
「ああ、そうか」
「まったくお優しいお兄様ね。アレックス様はとんだとばっちりだこと」
「何のことだか分からないな」
「可哀想に、涙の筋がたくさん。恐かったのね。今夜はきっと悪い夢に魘されるわ」
「いい加減、煩いぞルイーズ。終わったことだ。甘ったれにはいい薬になったろう」
「それはそうと、そろそろウィシャート公のお見舞いに参りませんと」
「ああ、ジェス。そうだった、忘れるところだった。まったく、難儀な。既定路線とは言え、奴はしぶといにも程があるな。
ははははっ、さてどんな感動的な口上を申し述べてやるべきか。アレックスを見習って、ここは涙のひとつも流しておくかな」
「うふふ、悪い方」




